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軽井沢町からJR信越線で五駅ほど下った所に、小諸市と云う町がある。
避暑地から、一番近い『市』である。
とは言っても、駅前には小さなデパートが一つ有るだけ。
目立った観光スポットは、島崎藤村の詩の碑と、小さな動物園のある懐古園、それと最近出来た虎さん記念館。
その小諸市の片隅に、障害を持った子供達の為の施設がある。
障害児童施設『光の学園』の一室に、その日、東京からの新幹線に飛び乗った的場圭一郎の姿があった。
『面会室』。
そう書かれたプレートの下がった部屋に、彼はいた。
「けーいちろっ。久し振りだねー」
にこにこと笑い掛けてくる、今年で十八になる弟の的場明彦の手をしっかりと握り締めながら。
「そうですね…。元気にしてましたか」
「うん。…いつも、お手紙だけなのにー。何で来たの?圭一郎」
「こっちに用事があったので。ついでに明彦の顔も見てこうと思ったんです」
「ふーん。ガッコウ、大変?トウキョウにあるんだよね?…トウキョウって、どこにあるんだっけー?」
「ずっと、遠くのほうですよ。東京も、学校も」
きゃっきゃと、甲高い笑いを上げながら、取り止めもなく話を続ける弟を、悲しそうに圭一郎は見つめた。
明彦は、生まれつき、微細脳損傷と云う障害を持っている。
脳に、微細な欠陥がある為、行動や言動が不安定で知能に偏りがある。
難しい漢字が読めない。計算が出来ない。奇声を発して暴れ、時には頭を壁に打ちつけたりもする。
外見はもう立派な高校生なのだが、彼の内面は、子供と変わらないのだ。
すらりと伸びた身長、太ってはいないがスポーツマンの様なしっかりした体。短く切った髪はさらさらしていて、瞳はくりっと大きい。美男子と言うよりは、チャーミングな顔立ち。
普通に高校に通っていたら、さぞもてた事だろう。
幼い頃は、言葉など全く喋る事は出来なかったが、リハビリを重ねていった結果、やっと日常会話なら話すことが出来るまで回復した。
今でこそ、施設に入ってはいるが、数年前までは故郷の軽井沢で、両親と共に暮らしていたのだ。五年前、事故で両親が他界するまでは。
一一五年前の秋未だ浅い頃、的場一家は、東北に旅行に出掛けた。
目的地は三陸海岸。その景色の美しさからこの世のものではないと言われた浄土ケ浜を見に行く予定だったのだが、着いたその日の夜、圭一郎は刺身に当たっておなかを壊し、翌日は丸々、ホテルで寝込んでいた。
事故は、その時起こった。
圭一郎を残し、両親は明彦を連れて浄土ケ浜を見に出掛けたのだが、そのまま、帰っては来なかった。
海岸線沿いの道を歩いている時、突然明彦が奇声を発して飛び出し、後を追い掛けた母親と、その又後を追い掛けた父親が、トラックに轢かれてしまった。
連絡をくれた警察官が、そう圭一郎に話してくれた。
一一明彦の病は、もう何年の前から軽くなっていて、中学の特別学級に通える程になっていた。
大丈夫と判断しての旅行だったのに、明彦は発作を起こしてしまった。
小児科が専門でないにしろ、医者である両親が付き添っていたにも係わらず。
『何か、特別なモノを、見たか聴いたかしたのだろう』
明彦の担当医が、圭一郎に告げた診断結果は、そんな曖昧なものだった。
圭一郎自身、本人に尋ねてみたが、要領を得なかった。
明彦が、何を見、何を聞き、発作を起こしたのかは判らない。その事で両親が死のうとも、彼には責任はない。
頭では、そう理解してはいたが、けれど間接的にせよ、好きだった両親を死に追いやったのが大好きな弟だと云う事実は、圭一郎の心に深く根を下ろした。
摘み取っても摘み取っても絶え間無く生えてくる雑草のように。
やがていつしか、その暗い想いは彼の中で大樹の様に成長し、圭一郎は明彦の側にいることが出来なくなった。
丁度、彼は大学受験の年に当たっており、両親の残してくれた遺産は、大学に通ったとしても彼等兄弟を養うには充分過ぎる程だったので、彼は弟を施設に預け、大学合格と共に、上京した。
昔から、弟の為にも、両親の後を継ぐ為にも、医者になろうと決めていた。幾ら弟に対して蟠りが有るとはいえ、今更その進路を変えるつもりもなかった。
だが、それ以来、一度も明彦の元を訪れることはなく。
五年の年月が経っても、明彦に対する圭一郎の暗い想いは消えず、別れる日、明彦が言った言葉も、耳に残っていた。
『お父さんもお母さんも、どっかに行っちゃって帰って来ないのに、圭一郎も僕を置いてどっかに行っちゃうの?』
一一暗い心の彼を、曇りの無い、真っ直ぐな瞳で、弟は見つめていた。
人が死ぬと云う事を理解出来ない弟を、どうして憎めるだろう。
どうして、恨めるだろう…。
「けーいちろーっ。僕のお話、聞いてる?」
「あ…ああ、聞いてますよ、勿論」
ぼうっと、物思いに耽っていた圭一郎を、明彦の声が呼び戻した。
気もそぞろの兄を、大して気も止めず、明彦は話を続けた。
「ほんとに?一一ま、いいや。でねー、最近ね、近所のゴンタとお友達になったの」
「ゴンタって…犬か何かですか?」
「ううん、猫。お母さん猫。凄くおっきくてケンカがつよおいの。でもねー、僕の手からクッキー食べるんだよ。凄いでしょ。それでね…」
こんな調子で久し振りに会った兄に対する明彦の会話は続いた。
それに圭一郎は一々頷き、面会の時間は終わりを告げた。
「ねー、次は何時来るの?『用事』が終わったら又来てくれる?」
「…そうですね。寄りますよ、又。約束します」
圭一郎がそう約束すると、やったーと明彦は喜び、バイバイ、と手を振った。
彼も、手を振って答え、学園を後にし、駅へと向かった。
旅立ったまま、一度も帰ったことのない故郷のプラットホームに立つために。
五年前の三月下旬。
故郷の軽井沢駅の一番線のプラットホームに、圭一郎は立っていた。
一時間に一本しかない上野行きの特別急行『あさま』。
後、三十分程でやって来るその列車を彼は待っていた。
あの頃は未だ、新幹線は開通しておらず、その特別急行が、東京へ向かう唯一に近い手段だった。
向かいの二番ホームには、上野発長野行きの『あさま』が疎らな乗降客を吐き出している。
そんな数少ない乗客の中に、圭一郎は見知った顔を見つけた。
「…三沢さん」
「あれ?…的場…圭一郎君だっけ?」
線路を跨ぐ歩道橋を下りてきた女性も、圭一郎に気付いた様で、親しげに言葉を掛けてきた。
明彦の主治医、大野秀明の婚約者で、名を三沢りんと言った。東京の出身で、中々の美人で、西洋の宗教画の世界に描かれている女性の様な雰囲気の人だった。
「お久し振りです。お元気でしたか?」
ゆっくりと、しとやかに少年に向かってくる女性に対して、彼はぺこりと頭を下げた。
「やあだ、りんさんって呼んでよ。もうすぐ三沢じゃなくなるし。圭一郎君こそ、元気にしてた???あら何処かに、行くの?」
ころころと笑いながら圭一郎の言葉に受け答えていた三沢りんは、彼の荷物に目を止めて、首を傾げた。
俯き、言いにくそうに圭一郎は答えを口にする。
「上京するんです。大学に受かったから」
「そう。おめでとう。…でも…明彦君は?どうするの?」
一一明彦君は?
この言葉を、言って欲しくなかった。
彼女は、そんな少年の態度に気付いてはいない様で、待合のベンチに荷物を置き、自動販売機で缶コーヒーを二つ買っていた。
「はい」
と、温かい缶を一つ、圭一郎に手渡して、そのまま、ベンチに腰を下ろす。
圭一郎もそれに倣った。
「…小諸の施設に、預けました。家…両親共に、他界しましたから。幸い、お金は二人が残してくれましたし、僕だけでは明彦の面倒は診られないし。今ここで進学を諦めて明彦の面倒を診るよりも、医者になって、きちんと明彦を施設から引き取った方が、きっと彼の為にもなるでしょうし……」
「ふうん…。偉いのね、圭一郎君」
「そんなこと…。あ、頂きます、コーヒー」
りんの言葉に謙遜し、手渡されたコーヒーの礼を言って、缶を開けた。
彼女は、もう、半分ほど飲み終えた様だった。手持ち無沙汰にしている。
そして、あけすけに、次の言葉を舌に乗せた。
「ね、圭一郎君って、明彦君の事、彼って呼ぶのね。他人行儀に。ご両親が亡くなられた原因が、弟さんに有ること、恨んでるの?」
一一それは、突然口にされた随分と単刀直入な言葉で、圭一郎は思わずコーヒーを吹き出した程だった。
「はあ?」
りんが、何を言っているのが、良く飲み込めなかった。
別に他人行儀なつもりはかけらもなかったし、恨んでるとか憎んでるとか、例え心の底で考えたとしても、他人にそれを感じさせる程下手な立ち回りをした覚えは彼にはなく、むしろ、精一杯上手くやったつもりでさえいたのに、どういう訳かりんは、圭一郎の心の奥底に根を下ろした暗い想いを読み取っていたのだった。
「でも、しょうがないよね、明彦君は病気だし、道路に飛び出した彼を追ってご両親があんな痛ましい事故に遇ってしまったのも言ってみれば運が無かっただけだし。貴方達兄弟がどれだけ仲が良かったか、あたし、秀明さんから聞いて知ってるし、絵に書いた様に仲の良い家族だって云う事も知ってる。大好きな両親が死んだのが大好きな弟のせいだからって憎んだりとかは出来ないでしょうけれど……。でもね、隠してもあたしには判るわ。貴方の暗い心が」
「…三沢さん…。ちょっと待ってください」
畳み掛ける様に喋って来たりんを、圭一郎は押し止めた。
大して親しくもない女性に、知ったかぶりな事は言われたくなかった。
「随分と、失礼じゃありません?幾ら貴方が大野先生の婚約者だからって、僕達家族の、兄弟の一体何が判るって言うんです?確かに両親が死んだ間接的な原因は、明彦にあるかも知れない。でもだからって、どうして僕が彼を恨んだりするんですか。仕方無いでしょう、明彦は、病気なんだから。障害を持ってるんだから。責任なんかない。だから僕が明彦を恨む理由なんてない。そうでしょう?」
「……そうかしら?」
しかし、りんはそんな圭一郎の言葉を、さらりと受け流して、そして…そしてとても哀愁に満ちた微笑みを浮かべたのだ。
「自分の愛してる人のせいで、愛してる人が死んじゃった。悲しいわよね。…とっても。憎らしいけど…憎めないわよね。恨みたいけど恨めない。…でも、恨んでいない、憎んでいないって言ったら、それは嘘だわ」
圭一郎の言葉など、耳に届いていないかの様に、りんは更に言葉を続ける。
「答えになってませんね。そんなの事情を知りもしない第三者の言葉です。三沢さんに、一体僕の何が判るっていうんですかっ!」
「怒ったのなら、謝るわ、ごめんなさい。…でもね……判るわ」
「どうして?」
その返答に、圭一郎は、思わず立ち上がった。
缶コーヒーが、手からこぼれて派手な音を立てたが、気にしている余裕はなかった。
これ以上、暗い思いへの、無責任な侵入は止めさせたかった。
「私は貴方の同類だからよ」
一一立ち上がったままの少年を見上げた彼女の視線は、変わらず憂いを含んでいる。
返す言葉が見つからなかった。
仕方無し、そのまま腰を下ろす。
「どう…るい…?」
喉の奥で、彼女の言葉を復唱した。
「圭一郎君、クラシック、聴く?」
すると、りんは、突然話題を変えた。
既にその表情は、互いに声を掛け合った時の様に、人懐っこい笑顔に満ちている。
…言いたいことだけ、ずけずけと言った癖に、突然何も無かった様に話しを変えるなんて…変な人だ。何処か、おかしいんじゃ無かろうか。
大体…同類ってなんだよ。家族を亡くした事でもあるのか?障害者の兄弟でもいるのかよ。僕が、明彦を置いて東京へ行く、本当の意味は判らないくせに。
彼女の突然の変化に、そんな訝しげな感を覚えたが、口にする事は出来ず、仕方無し、圭一郎は調子を合わせる。
「別に…嫌いじゃ無いですけど……」
「そう。じゃ、再会を記念して、これ、あげる」
圭一郎の思惑を全く以て無視し、りんは自分の荷物の中から一枚のCDを取り出した。
『クラシック名曲百選 歌曲「冬の旅」』。
手渡されたCDには、そう、書かれてあった。
「シューベルト…ですか」
「あたしね、凄く好きなの、そのCD。特に五番目の『菩提樹』。何とも言えない素晴らしい曲よ。良かったら、独り暮らしのお供に聞いてあげてね。本当は、これから始まる軽井沢での新生活のお供にしようと思ったんだけど…新しい門出を迎える君にプレゼントしちゃう」
「…新生活って…。三沢さん、とうとう、ご結婚なさるんですか?大野先生と?…おめでとうございます。それだったら僕が餞別なんか、貰ってる場合じゃないのに…」
「嫌だわ、そんなあ」
祝福の言葉に照れたのか、空き缶をぶんぶん振り回しながら、りんは頬を赤く染めた。
「良かったですね。日取りが決まって。確か一回延期になったんでしょう?葬儀の時に、大野先生に聞きました」
「そうなのよ。本当はね…今年に入って早々にも、軽井沢で式を挙げる予定だったんだけど…ちょっと、秋口に姉が死んじゃってね。延びちゃったの、挙式」
「…そうだったんですか…」
意外なりんの告白に、少しだけ、圭一郎は恐縮した。
この人も、家族を亡くしたのか。ならば確かに少しだけ、僕と同類なのかも知れない。
「あたしね、軽井沢って言うと、小説家の堀辰雄を思い出すのよ。堀辰雄ってね、やっぱり『冬の旅』が好きだったんですって。何時だかテレビでやってたの。それで、この曲を聴く様になって…。『菩提樹』が好きかどうかまでは知らないけどね。良かったら、これ聞いて故郷を思い出して」
自分の手を離れていったCDに視線を落としながら、りんがあの悲しげな笑みを浮かべた時、列車到着のアナウンスがプラットホームに響いた。
「時間だ」
独りごちて立ち上がった圭一郎に、りんが手を差し出した。
「元気で。圭一郎君が帰ってきたら、会いましょうね。CDの感想も聞きたいわ」
「三沢さんも、お幸せに。今度お会いする時は、大野りんさんですね」
「そうね。一一それじゃあ」
「さようなら」
別れの握手をすると、りんは荷物を抱え、改札口へと歩いていった。
圭一郎は、滑り込んできた特別急行に乗り込んだ。
プシューっという空気の音がして、ドアが閉まる。
振り返ると、未だ少しだけ雪に囲まれた、白樺林が目に止まった。
その向こうを、りんが歩いてゆくのが見えた。
僕と貴方は、同類じゃない。
……医者になれたら…もう一度、ここに帰ってくるかも知れない。もう、帰ってこないかも知れない。
何年経っても、明彦への想いが変わらなければ、僕はここへは帰ってこれない。
だって…僕の心に芽生えた想い一一貴方流に言うなら、芽生えた憎しみは、きっと消え無い。
判ってる。…あいつのせいじゃない事ぐらい判ってる。理屈では判ってる。明彦に対する感情が、八つ当たりである事も全て。
最初は自信があった。
沸き上がる、明彦への悲しみも怒りも憎しみも、忘れ去る自信が。
けれど、あの明彦の真っ直ぐな瞳は、僕の心の奥底を覗いている様で、憎しみすら見抜かれている様で、僕は薄ら寒いものを感じたんだ。
人の死を、理解出来ない弟。憎悪と云う言葉すら知らないのに。
何故だかは判らない。
…敢えて言うなら…僕が両親を好きだったから。
僕は明彦を大好きだから。
それが、理由かも知れない…。
急速に小さくなってゆく三沢りんの後ろ姿を見送りながら、圭一郎はそっと微笑んだ。
りんが浮かべた、あの憂いを帯びた笑みと同質のものとは気付かずに。
…ねえ、三沢さん。貴方のお姉さんがどんな死に方をしたかは知らないけれど…その事で我が身を呪う程、貴方は苦しくないでしょう?
……だから…僕と貴方は…同類じゃないんです。
「…きっと…ね…」
そう呟いた圭一郎の声は、列車の轟音に掻き消されて、誰にも聴かれる事なく、消えていった。 |