「……アーサー? ローザ?」
小さく名を呼んでも二人が目覚めぬのを確かめ、寝台を抜け出し、音を立てぬよう気遣いながら着替えを終えて、懐に手鏡を仕舞い込んだアレンは、再び、深い眠りに落ちた彼等の傍らに戻った。
「アーサー。ローザ。…………有り難う。それから……御免」
闇の中、二人の寝顔を紺碧の瞳に焼き付け、呟きを落とした彼は、アーサーには額に親愛の接吻を、ローザには唇に愛の接吻を、それぞれ残すと、足音も気配も忍ばせ、自室を出て行った。
人払いをしておいたから、滑り出た廊下に人影は殆ど無く、遠くに夜番の衛兵の姿が窺えるのみで、アレンは、小さな子供だった頃のように、そして、旅立ったあの夜のように、城内の者達の目を盗み、地階目指して階を下った。
「陛下!? 出歩かれて宜しいのですか? お加減は!?」
「案じてくれて感謝する。だが、もう大分いい。それに、どうしても今夜中にしておかなくてはならぬことを、しに来ただけだから」
そうして城内を行った彼が向かった先は、王城地階の東の一画にある宝物庫で、深夜、その日の午後まで危篤だった国王の突如の訪れに、宝物庫番の兵達は慌てたが、笑顔で番兵達を制した彼は、中へ進んだ。
────ローレシア王城宝物庫には、この数年はアレン自身もたまにの手入れをするのみだった、ロトの武具一揃えが安置されている。
その、ロトの武具を納めてある箱の封印を、携えてきたロトの印で解いた彼は、その場で身に着けた。
「……陛下…………?」
淡くて青い光を放つ伝説の武具を身に纏い、腰にロトの剣を佩いた彼が宝物庫より出て来るや否や、番兵達は目を瞠ったけれど。
「大したことじゃない。……一寸」
又も、兵達を笑みで制したアレンは、肩より下げたマントを翻し、何処へと去った。
真夜中になっても、アレンとローザの三人の子供達は、上手く寝付けずにいた。
この半月、立て続けに起こったことが、彼等を眠りから遠ざけた理由の一つ目で、父の容態が持ち直してくれたことが、理由の二つ目だった。
だから、次第にモジモジし始めたロレーヌは自室を抜け出し、次男アデルの部屋を訪れて、アベルお兄様の所に行こうと誘い、アデルはロレーヌを連れ、長男アベルの部屋へ向かった。
兄弟揃って寝付けずにいたのだと知ったアベルは、長らく、やって来た弟と妹を構っていたが、アデルやロレーヌがそうだったように、三人仲良く語らっても落ち着きを取り戻せなかった彼は、こっそり父の様子を見に行ってみようか、と言い出した。
こんな時間だけれど、父上の寝顔を見たら引き返す程度の見舞いなら、多分許して貰えるだろうし、そうすれば、きっと安心して眠れる、と。
それに、次男も長女も一も二も無く頷いて、そうしよう、と言い合い。
故に三人は、そうっとそうっと。
アベルの部屋をも抜け出した。
────それは、丁度、アレンが人目を忍んで宝物庫へ行こうとしていた途中のことで。
宝物庫を後にしたアレンが次に訪れた先は、玉座の間だった。
真夜中故に、人の気配も火の気も無い、がらんとしたそこ。
その間の中央を貫く、赤くて長い絨毯の直中に、自身の為の玉座を背に佇み、彼は腰のロトの剣を鞘毎取り上げる。
「…………父上。一体、このような夜更けに、そのようなお支度で、何を……?」
──直後、アレンにしてみれば何故
「お前達……。どうして」
「その……。寝付けませんでしたので、三人で、父上の寝顔を拝見しに行こうとしたのです。そうすれば、眠れるだろうと思いまして……。その途中で、何者かが忍ぶ風に城内を行く影を見掛けまして、後を尾けたら父上で…………」
「……成程な。高々半月寝込んだだけで、お前達に後を尾けられていたと悟れなかったとは。…………歳かな」
右手をロレーヌと繋ぎ、左手でアデルの二の腕を掴んで立つ長男アベルに、探るような目を向けられ、アレンは苦笑する。
「父上、お答え下さい。何を為さっておられるのですか。今日の昼、一命を取り留められたばかりなのに、ロトの武具まで身に着けて、玉座の間で一人で、などと。尋常とは思えません」
「………………これが。私のしなくてはならぬ最後の務めで、私の望みだから」
けれども子供達は、誤摩化すな、と少々声を大きくし、アレンも、笑みを消して答えた。
「父上…………?」
「……私達の一族は。ローレシアもサマルトリアもムーンブルクも。勇者ロトと呼ばれたアレク様と、ロトの勇者と呼ばれたアレフ様の血を受け継いだ、ロトの一族。勇者の一族だ。……私は、アレク様とアレフ様の伝説が、幼き頃より大好きだった。そして、今でも。お二人の血を受け継いだことは、私の誇りの一つ。……けれど、もう。終わらせなければいけない。何も彼も」
「…………父上っ。仰られている意味が判りませんっっ」
「だから。もう、勇者は要らない、そういう話だ。私も、アーサーも、ローザも。ロトの血を引く当代の勇者と呼ばれたけれど。私達は、確かに勇者となったけれど。『勇者』は、私達の代で終わらせる。伝説も終わらせる。……この世界には。人にも魔物にも。始めから、勇者も勇者の伝説も要らなかった。なのに、アレク様とアレフ様は。そして我々も。勇者の路に立ち、勇者になった。…………全ては、私達自身が望んだことだ。私達自身が掴み取った、私達の運命だ。……だが。『勇者の運命』など要らない。私達一族にも、世界にも」
「ですからっっ。それと父上の今と、何の関係があるんですっっ!? 勇者が要らないならっ。勇者も勇者の伝説も、『勇者の運命』も要らないならっ。何で、今、伝説のロトの武具なんかをっ!」
笑みは消えた、されど穏やかな顔でアレンが語り出したことに、子供達は不満そうに叫び出したが。
「告げたろう。──私は勇者になった。自ら望んで。そして、何も彼も終わらせなくてはならない。それが、私の最後の務めであり望みだ。だから、私が全てを持って行く」
「持って行く…………?」
「ああ。全てを。何も彼も。────それが、あの旅の頃から二十五年掛けて、私が出した答えだ」
面も声音の調子も変えず、アレンは告げ続ける。
「父上……。まさか、折角救われたお命を…………」
「いや。敢えて、自ら命を絶つような馬鹿な真似などしない。……世界樹の葉は、私に時間をくれただけ。アレク様とアレフ様へ捧げた、もう少しだけ時間が欲しいとの願いを叶えてくれただけだ。そうでなければ、例えロト一族よりの乞いでも、世界樹は自身の葉を与えてなどくれなかったろう。……だから。何をどうしても、私の命はもう間もなく尽きる」
「お父様…………? お父様は……逝かれてしまうの……?」
「……逝きたくはないよ。未だ、逝きたくなどない。アベル、お前がローレシアの王に即位するのを、アデル、お前がムーンブルクの王に即位するのを、この目で見たかった。ロレーヌ、父としては少し嫌だけれど、お前が婚礼衣装を纏って愛した人の許に嫁ぐ日まで、生きていたい。……誰だって、死ぬのは嫌だろう? 況してや、愛する者達を後に残して逝くなどと。未練にも程がある。…………うん、嫌だな。お前達を、アーサーとローザを、残して逝くのは嫌で、未練だ。────けれど。これが、私の運命
「父上……」
「父、上……っ」
…………父が告げた言葉の、全てを理解するのは到底不可能だったけれど。
父の意志に揺らぎが無いのは。足掻こうと、父は間もなく逝ってしまうのも。子供達にも悟れ、アレンの眼前に立ち尽くしたまま、ハラハラと泣き濡れ出した。