『狭間の光』
このお話は。
『Duende』の、キリ番カウンター『10000』を踏んで下さった、『楠 千尋』さんに捧げます。
リクエスト、どうも有り難うございました。
草原。
その直中。
目指す場所は、この向こうにある。
振り返れば小さな町は、もう彼方に霞んで見えて、眼前には、少しばかり急な丘が姿見せた。
「……っとに…」
──広い、広い草原。
自分達の他には、今は誰もいない、晴天の草原。
その真っ只中を、脇目も振らず、なのに何処か俯いて、早足で進んでいく恋人の後ろ姿に、セッツァー・ギャビアーニは、苛立ちの様な、困惑の様な、諦めの様な……そんな、溜息を吐き出した。
俯き加減の面を別にすれば、誠、正しい姿勢で、ズンズン、と云う表現が相応しい足取りで進んでいく彼の人は、今、確実にご機嫌斜めだ。
全身から、言葉にして近付くなと言われるよりも遥かに痛い気配が、放たれているのが良く判る。
「……エドガー」
それでも、セッツァーは。
もう一度だけ溜息を零した後に、愛しい愛しい、恋人の名を呼んだ。
応えが、返される事など、なかったが。
「エドガー」
再び、名を呼ぶ声が、草原に響いた。
……答えは…当然。
「…………エドガー。いい加減にしねえか。未だ、拗ねてるのか?」
「……拗ねてるんじゃない。怒ってるんだっっ」
三度目の呼ぶ声に、漸く、返答が戻った。
振り返る事なく、懸命に歩く人のそれは、草原を渡る風に乗って、何処か掠れて聞こえたけれど、低く、静かに怒っている声音だった。
拗ねてる、も、怒ってる、も、お前の場合、似た様なモンだろうが。
と、内心で悪態を付きながら。
セッツァーは渋い顔をして、長い銀の髪を掻き上げ、唯、恋人の数歩後に付き従った。
銀の髪した恋人の、数歩前を突き進む様に歩いている、エドガー・ロニ・フィガロは。
今、どうしようもなく機嫌が悪かった。
何時も通り訪れた、月に一度の逢瀬の時。
その時を、心待ちにしていたのに。
直前に、予定になかった想い人の手紙が舞い込んで、何事だろうと封を切ってみればそこには、少し体調を崩した、としたためられていた。
体を壊した……なんて、恋人が告げてくるのは滅多にない事だったから、居ても立ってもいられなくなって、全ての予定を──当然、執務も──放り出し、手紙が綴られた町を訪れてみたら。
体調不良の原因は、不摂生の果ての過労で、しかも、彼の居た場所は、小さな小さなその町に、それでもあった『産院』で。
子供を宿した女性達が寄越す、奇異の視線に晒されながら、病室まで踏み込んだら、当人は悪びれた風もなく、けろりとしていた。
心配で、心配で、どうしようもない想いを抱え。
そこにしか、何とかでも医者と呼べる者がいなかったのだから、致し方ないと思い、産院にて、男が男を見舞うと云う気恥ずかしさにも耐えたのに。
何時も通りの恋人の顔と態度を見た瞬間、抱えていた全ての感情は、怒りへと変わった。
セッツァーが、ファルコンを停泊させていると云う、草原の外れを目指しながら、その道中に現れた丘を、エドガーは登った。
募った心配と不安の大きさに比例して、怒りも、それは大きなものだったから、あの町の門を潜る時、そのままフィガロに戻るのが、不真面目な恋人に向けてやるに相応しい態度だとは思ったのだが……どうしても、それだけは出来なくて、かと言って、掛けてやる言葉を見つける気はなく、何も彼もがやり場なく、セッツァーを置き去りにする様に歩くしか、エドガーには出来なかった。
何時までも怒っているのは、大人げないと判っている。
セッツァーは、何を言っても、『拗ねている』と信じて疑わないだろう。
実際問題、自分は拗ねているだけなのかも知れないが……でも一言、軽い言葉でいい、謝ってくれても、いいじゃないか。
そんな風に彼は思うから、何度呼ばれても、どうしても素直に、恋人を振り返れなかった。
後ろから、恋人の溜息が聞こえて来る。
風に乗って、悪態の様な台詞も届いて来る。
だから余計、振り返れない。
痴話喧嘩なんて、引き際が肝心だと判っているのに。
引けない。
ああ、でも。歩き疲れた。
姿勢を正しているのにも、疲れた。
……そう、疲れたから。
素直にはなれなくとも、あんなに心配したのにと、その一言が言えなくとも、立ち止まるくらいの事はしてやってもいい、と。
エドガーは、登り切った丘の頂き、そこにぽつんと立っていた、大木の根元に腰を下ろした。
「未だ……怒ってんのか?」
エドガーが座り込んだ大木の根元、その隣に、さも当然の様に座って。
暫くの沈黙が流れた後、呆れた風な声で、セッツァーが云い出した。
「……別に。最初から怒ってなんかいない。怒ってるとしたら……君のその、だらしない生活態度に、だ」
言い種と声音が、未だ気に食わなくて。噛み付く様にエドガーは答える。
「ほう……。怒ってない、か。じゃあ、機嫌を直せよ」
「直ってる」
「直ってない」
「直ってるって、言ってるだろうっ! しつこいっ!」
「その態度の何処が、機嫌を直した人間のそれだ?」
「悪かったなっ! 私は元から、こんな態度だっ」
少しだけ苛付いた様な……少しだけからかう様な……そんな態度をセッツァーは崩さない。
答え続けるエドガーの言葉の勢いは、自然、上がった。
「っとに……。悪かったと、俺だってそう思ってる。他人が見たら、目を剥く様な生活の所為で不調になって、挙げ句、飛び込んだ医者は産院で、駆けつけてくれたお前に恥を掻かせて、約束の逢瀬も、こんな風にしちまった。すまないと、そう思ってる。償いはするから。だから、いい加減機嫌を直せ」
ポンホンと、矢の如く返されるきつい言葉に、心底反省しているから口にしたのか、それとも先に引き際を見つけたのが彼の方なのか、それは判らないが、それでもセッツァーは漸くぼそっと、謝罪を述べた。
「君の事だ。悪いなんて、かけらも思っていないだろうに」
だが恋人は、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
「思ってる。山程、思ってるさ。……だから。機嫌を直してくれ。俺の為に駆けつけてくれたお前との時間を、剣呑な会話で過ごしたくないんだ、俺は」
やれやれ、これは随分と根深い『拗ね』だ、と。
内心で苦笑しながらセッツァーは、甘い言葉を囁いた。
──大抵の……そう、些細な事なら。
顔全体に、ああ、又騙される、又誤魔化される、と書かれた表情を作りながらも、優しい恋人は微笑んでくれるから、ギャンブラーは常の手段に打って出たのだが。
今日のエドガーは、少しばかり手強かったと見える。
「騙されない」
ぴしゃり、そう告げて、逸らした顔の中、甘い言葉に眉を顰めた。
「おいおい……。今日は随分と、意地が悪いじゃねえか」
厄介な態度だ、と、己の事は棚に上げてセッツァーは、背けられた頤に、指先を掛けた。
僅か力込めて振り向かせ、唇と唇を触れ合わせてみたのに、閉じられる筈の蒼い双眸は、見開かれたままで。
真剣に、今日のエドガーは手強い事を彼は知る。
「男の悪い癖だ。都合の悪い事があると、そうやって、睦言で誤魔化そうとする……」
軽い接吻が費えた瞬間。
エドガーの口から、非難が洩れた。
「お前……な……──」
お前もその、『男』だろうが、と。
喉元まで出掛かった、非難に対する茶々を、セッツァーはぐっと飲み込んで、そんなに頑な態度を取り続けるつもりなら、こっちにも考えがある、と、紫紺の瞳に宿る光を、微かに濃く、深く変えた。
確かに、悪かったのは自分だと思う。最初から素直に詫びていれば、ここまで恋人の機嫌を損ねる事もなかったとは思う。
だが、『引き際』はそれでも見せてやったし、謝罪の言葉も口にしてやった。
臍を曲げてしまった手前、手のひらを返した様に、素直にはなれない彼の心情も、察してやれない事はないし、彼には彼の意地があるのだろうと、判ってはいるが。
多少、度を越したな、と、何処までも自分の所業は片隅に追いやって、銀髪の男はその時、少しだけ手加減を忘れた。
「……じゃあ、な、エドガー」
緑の草の上、体を少し滑らせて。
寄り添う程に恋人へと近付き、だが、その腕の中に収める訳でなく。
有らぬ方向へと顔が逸らされたままだから、無防備になってしまっているエドガーの肩口に、セッツァーは緩く、己が頤を乗せる。
舐め取れる程近く、耳朶に唇を寄せて彼は、低く囁き始めた。
「どうすれば……機嫌を直してくれるんだ? 俺は、何を囁けばいい? 悪かったと、すまなかったと、何度告げれば満足する? 何をどうしたら…………何時もの時の様に、お前は笑って、俺にその身を預けてくれる?」
低く、何処か頼りない、その言葉達が白い首筋を通り抜けた刹那、ぴくりとエドガーの体が震えた。
「だから……そうやって誤魔化そうとするのは……」
「誤魔化してなんかいない。本当に、そう思ってる。悪かったと思ってるし……お前の機嫌だって直したい。云ったろう……? こうしている時間を、俺は無益に過ごしたくないんだ。月にたった一度の逢瀬。年にたった、十二回。無駄になんざ出来ない」
極力、重さを感じさせない様に乗せた自身の頤に、今度は逆に少しずつ、力を込めて彼はそのまま、重力に負けた様にすっと、頬に頬を寄せた。
ふっと、紫紺の瞳を軽く巡らせば、自然、頬も動いて、肌と肌が擦れ逢う、こそばゆい感覚もそこには生まれる。
「……卑怯者……」
懐いてくる、猫の様な仕種に、弱い抗議の声を、エドガーが上げた。
「卑怯? 何が、だ? ……なあ、エドガー。正直に言おうか。唯、ちっとばかり体調を崩した俺の為に、お前がわざわざここまで来てくれて、柄にもなく嬉しいと……そう思ったんだ。出来るなら…何時もみたいにお前に接吻て……お前を、な……────」
何を以て、彼が卑怯と云ったのか、充分知りつつセッツァーは、漸くそこで、抱える様に片手を回し、そっ……と紺碧の両目を揃えた指で覆う。
瞳を覆った、揃えられた指先は、力などかけらも込められてはいなかったから、指と指の間から、綺麗な陽光が射し込んで来て、狭間の光の眩しさに、思わずエドガーは瞼を閉じた。
残されたセッツァーの腕が、瞳閉ざしたエドガーを、緩慢に抱き込んだ。
寄せられた頬の近くでは、テノールが響いた。
「悪かった」
もう一度だけ、謝罪が告げられた後に。
「でも、な。そろそろ、機嫌は直してくれないか。折角の刻なんだ。……抱きたい。お前を、抱きたい。何時でも、そう思ってる。何時でも、この手の中に収めたい、そう願ってる。覚えてるお前の『姿』を、何時だって、俺は思い出す。だから」
抱き込んだ腕、その指先が、ゆるゆると服の上を這った。
「記憶でだけじゃない。思い出でだけじゃない。指先も、肌も、お前を刻み込んじまってる。あの時に、お前が晒してくれる全てを、な。……俺の自惚れでなければ。お前だって、そうだろう?」
「…………こんな時に、そう云う事を云うのは……こういう事で誤魔化すのは……男の悪い癖だ…って……っ」
不規則に、服の上を伝うセッツァーの指を払う事が出来ずに、唯エドガーは、非難から苦情へと成り下がった言葉を、何とか繰り返した。
「くどいな、お前も。その閉じた瞼の向こう側に、お前は今、何を見てる? 俺の瞳か? 俺の肌か? それとも行為、そのものか? ……なあ…何を思い出してる? 俺は全部、思い出してる。目を閉じれば、全て思い出せる。お前の瞳も、肌も、声も、あの熱さ、も」
「セッツァーっっ」
紡がれる言葉に、悲鳴の様な、エドガーの声が上がる。
だがテノールは、何時までも響き続けた。
寄せられた頬も、そのままに。
「お前とだけ過ごす、この時間に。お前と諍ってる暇なんざない。お前をもっと覚えたい。お前の中は、それだけ熱い。──欲しく、ないか? お前は、思い出さないのか? それとも俺は、『熱く』ない、か? お前の熱さには、相応しくないか? …………もっと…『そう』してやろうか……?」
片手で瞼を覆われて、片手で微かに弄ばれて、そうして囁かれた台詞に、エドガーはびくっと肩を竦ませた。
恐らくもう、彼にはそれしか、出来ない。
だから。
例え、この場で何をしても。
きっと抵抗など返されない、それを確信してセッツァーは、するりと両腕を解くと、狭間の光が一杯に広がって、きゅっと強く目を瞑った恋人の両手を掴み、柔らかな緑の中へと押し倒した。
覆い被さり接吻を落とせば、
「…………本当に……卑怯者だ、君は……。こんな風に、私を黙らせて」
唯、溜息と共に、又そんな台詞が返された。
「そうだな…。卑怯者かも、な」
ああ結局自分は、誤魔化されるんだろうな、と云う様な顔を刹那作った人に、忍んだ笑いを零して。
「ほら」
組み敷かれ、瞼を閉ざしたまま、呆れた様に微笑んだ彼を、セッツァーは起こしてやる。
「立てるか?」
「…ああ。平気だ」
やれやれ、そんな呟きを洩らしてエドガーは、自身の金の髪に、恋人の銀の髪に、諍いの名残みたいに絡み付く草を払った。
「続きは、ファルコンの中で、な」
腰に手を回し、ぐっと引き寄せ、ぽつりとセッツァーは呟いた。
恋人はもう、怒ってなどいないから。
機嫌直しに始めた小手先の技を、本当に甘い時間に変えようと。
「冗談じゃない。確かに私は機嫌を直したけれど。それとこれとは話が別だ」
だがエドガーは、それまでとは『質』の違う機嫌の悪さを抱えたらしかった。
「……判ってる。お前が怒った訳も、拗ねた訳も、判ってる。……心配させて、すまなかった」
だから。
微かに口許を尖らせたエドガーの手を取り、指先に唇を寄せ。
きっと、彼が真実望んでいた謝罪だろう台詞を口にし、晴天広がる草原の丘を、ファルコン目指してセッツァーは歩き出した。
キリ番をゲットして下さった、千尋さんのリクエストにお答えして。
『(色気系の話前提で)外。若しくは言●責め』、と云うものでしたので(笑)海野は書かせて戴きましたが。
そっち系の話と云うよりは、出て来い大魔神、のよーに、セッツァー氏、苛めっ子の本領発揮期間、みたいな話になってしまいまして(汗)。
しかも、このセッツァーは多分、その実力の(何の実力だ……。ジャ●アンの実力か。……うん、そうだろうな……)片鱗しか見せていない様な……。
御免なさい、リクエスト内容消化不足の作品かも。ある意味では、厭らしい奴だと思うのですがね。銀髪の彼(笑)。何せ、私の書くセッツァーは、偉い事根性曲がりでして……。気に入って戴けましたでしょうか、千尋さん。