カナタとセツナ ルカとシュウの物語

『約束』

あれから──群島解放戦争が終結してから、短くはない年月が経ったけれども、ヨミは、『己』という存在を決して目立たせぬように、オベル王国を訪れる際には必ず、日没間際にオベル港に着く船に乗る。

その日も、そうだった。

天頂で夕焼けと宵闇が混ざり合う頃に桟橋に着いた最終の定期船から降りて、けれど、その時に限って彼は、常ならば真っ直ぐにオベル王宮へ向ける足を、人気ない森の中へと向けて夜半近くまで時間を潰し、街中からも、王宮からも人々の姿や気配が途絶えるのを待って、漸く、目的地である王宮──白亜の宮へ続く坂道を登った。

シン……、と静まり返った道を辿って、同じく静まり返る王宮の門を潜り、が、裏手へと廻ったヨミは、まるで盗賊か何かのように、辺りを憚りつつ奥の一画に忍ぶ。

オベル王宮の警備は決して緩くはないが、かつての群島解放戦争時の英雄で、二十七の真の紋章の一つ、『罰の紋章』の宿主でもある彼にとって、明るく開放的な造りをしている南国の王宮へ人知れず潜り込むなど雑作もないことだし、又、その一画だけは、何時でも彼の為だけに開かれているから、難なく王宮深部への侵入を果たした彼は、ひたすらに忍びながら、その一画の最奥に位置する部屋の扉を、そっと叩いた。

「……誰だ?」

「僕です」

間を置かず、室内から老齢に達したと思しき男の声がし、一言のみで応えたヨミは、半分だけ開いた扉から中へと身を滑らせる。

「……ただいま、お父さん」

「おかえり、ヨミ。今回は、少し長い放浪だったな。何ヶ月も、何処をほっつき歩ってた、ドラ息子」

半ば眠っていたのだろう、横たわった寝台の中で上半身だけを起こし、忍び入って来た彼を出迎えた男──オベル国王リノ・エン・クルデスは、嬉しそうに笑った。

「……御免なさい。…………あの、お土産です」

笑むだけでなく、柔らかい眼差しも注いでくれた彼に笑み返しはしたものの、前回オベルを訪れてから今日までの『軌跡』を問う言葉には答えず、ヨミは静かにリノの枕辺に寄って、そっと腰掛けると、肩から掛けていた布鞄の中より一本の酒瓶を取り出し、差し出した。

「ん? 酒か? しかも、カナカンの?」

「ええ。お父さんも、他の皆も、そのお酒は好きみたいだからと思って」

「……子供が、気なんか遣わなくたっていいってのにな。だが、有り難く頂いとく。──って、他の皆ってのは?」

「スノウ達とか、キカさん達とかです。ここに戻る前に、ラズリルや海賊島に寄って届けて来たんです。庵の小島に行って、エレノアさんの所にも置いて来ました。エレノアさんも、カナカンのお酒が好きだったから」

「…………成程。──そうだな。ラズリルの連中も、キカ達も、この酒は好んでるみたいだし。エレノアも、カナカンの酒を愛してた」

慎まし気に差し出された土産を受け取りつつ、ヨミの細やかな語りに耳を貸したリノは、しみじみとした声で言う。

「…………はい。皆、幾つになっても、そういう処は昔のままで」

そして、ヨミも。しみじみと、懐かしそうな声で応えながら、懐かしそうな遠い目をした。

────あれから。

群島解放戦争の頃から、長いとは言えない、が、短くもない年月が経った。

当時の仲間達の幾人かは天に召され、残りの者達も、相応に年老い始めた。

戦中は四十代半ばだったリノが、老齢の域に入ったように。

罰の紋章と共に在るヨミだけは、真の紋章が齎す理に従い、齢十七歳前後だったあの頃と微塵も姿を変えていないけれど、そんな彼も、内面は変化した。

実の父かも知れないリノへ、素直に「お父さん」と呼び掛けられるようになったし、傍目にも判り易い表情を浮かべるようにもなったし、以前よりは他人との語らいにも慣れた。口下手であることに変わりはないけれども。

人々同様、『世界』も移り変わりつつあり、群島諸国連合に名を連ねる各島々は、あの戦争の頃とは比べ物にならぬくらい発展した。

かつては無人島だったあの島さえ、ニルバ島と名を改めたのみならず、大きな港や居住区等々が建造され始めており、昔の面影は、もう間もなく失われてしまうだろう。

──だから。

土産を携え、懐かしい人々の許を訪ね歩いた最後──即ちその日、同じく土産を携えてリノの許を訪れたヨミは。

「…………あの。お父さん」

何処か遠い所を見遣っている風な眼差しを止めて直ぐ、寝台の柵に凭れ掛かったままのリノへ、改まった風に向き直り、

「……なあ、ヨミ。一つ、親父の我が儘な頼みを聞いちゃくれないか?」

某かの話を切り出す風情となった彼を遮って、リノは、真摯な声で告げた。

「我が儘な頼み? えっと…………」

幾つになっても豪快過ぎる質のままの、ちょっぴりだけ傍迷惑な部分の持ち合わせもある彼が、自ら我が儘と例える頼みは、本当に我が儘なそれであると思えて、ヨミは困ったように小首を傾げる。

「俺は、別れの言葉は聞きたくない。『じゃあ、又』とか。『その内に』とか。そんな風な陳腐な嘘も聞きたくない。……だから。『行ってきます』と、そう言ってくれ」

「………………お父さん……?」

「親を見縊るな。……もう、行くんだろう? 群島じゃない何処かに。それを伝えに来たんだろう?」

「……ええ。もう、そろそろ。行かないと……、と思って…………」

「…………だから、な。俺は、『行って来い』と、そう言うから。お前は、『行ってきます』と言ってくれ。……別れの言葉じゃなくて。旅立ちの言葉を告げてくれ」

「お父さん…………」

そんな彼へ告げられたリノからの頼みは、思った通り『盛大な我が儘』で、ヨミは、益々困ったように、それでいて泣きそうに面を歪めたけれど。

「フレア姉さん達に、宜しく伝えて下さい」

「んなこた、自分の口で言え。朝まで、ここにいればいいだろうが。こんな時間にオベルを出る船がある訳じゃなし、フレア達のツラ見て、飯食ってから行けばいい」

「それは、一寸……」

「何でだよ」

「……だって、フレア姉さんは何時も、子供達を盾に取って僕を引き止めるから。『貴方の甥っ子と姪っ子でもあるんだから』って、狡いこと言うんです。……だから、駄目です」

「そうか。だったら、大人しく引き止められとけ」

「…………駄目です。────それじゃあ。……行ってきます、お父さん」

「……ああ。行って来い」

何とか、笑みらしきものを浮かべたヨミは、リノの願い通り、旅立ちの言葉を告げ、リノも、宣言通り、送り出す言葉を口にした。

────それは、ヨミにとって、終わりのない旅の始まりを告げる言葉でもあり。

永劫、『行ってきます』を受け止める『お帰り』の言葉も、『行って来い』を受け止める『ただいま』の言葉も生まれない、その刹那を境に何も彼もが宙に浮く、虚しいとも言えるやり取りでもあったけれど。

それでもリノは、息子へ、『行ってきます』の言葉を求め、ヨミは、『父の我が儘』を受け止めた。

リノは、終わる筈ないヨミの旅が、それでも何時の日にかは終わることを祈って。

ヨミは、儚かろうとも、そんな『夢』を見せることが、父への愛と信じて。

二人は、決して果たされぬ再会の約束を、その夜に。

互い、これが今生の別だと、知っていながら。

End

後書きに代えて

ヨミが、群島から去る際の一幕な話。

──以降、彼は長らく、群島には戻りません。

それこそ、何時の日にかは訪れることもあるでしょうけれど、少なくとも百年単位で戻りません。

正しく、今生の別。

──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。