カナタとセツナ ルカとシュウの物語

『曇りガラス』

空を見上げれば、薄く明るく、でも暗く。

頬に当たる風は冷たく。

……ああ、雪が降るんだな、と。

永い永い、本当に永い道程を歩き続ける旅人である彼等にとっては、決して有り難くはない空模様を。

その日転がり込んだ、名前も知らぬ街の片隅の宿屋の、大して広くもない、お粗末なベランダに立って、年期の入った彷徨い人となって久しいカナタ・マクドールと云う名の彼は、ふい……っと、首上向けて眺めた。

──この世の理を司る、神の如き紋章をその身に宿して、もう、何十年も前に、老いることを手放してしまった彼だけれど、それでも彼にも、故郷はあり。

彼の故郷である街は、その街、その国、それらが存在する大陸の、南側に位置しているから、『元々の彼』にとって、雪、と云う物は余り、馴染みがないそれだ。

けれど、元々は馴染みがないからと云って、彼は、雪が降る、と云う……誠に情緒ない言い方をしてもいいなら、単なる『気象現象』に、おいそれと心馳せるような質ではない。

ゆく宛があるのかないのか、それすらも定かではない旅路を続ける彼にとって、ともすれば、雪などと云う代物は、鬱陶しいだけの存在でしかない。

……でも、強大な紋章を宿して不老となった彼のように、やはり、強大な紋章を宿して不老になった、彼の旅路の道連れである、セツナと云う名の『少年』は。

雪に馴染みのある場所で育ち、旅人であるにも拘らず、カナタよりも遥かに『素直』に、単なる『気象現象』を受け止め。

「雪ですよ、カナタさん」

……と、嬉しそうに、顔綻ばせて笑うような質だから。

今にも降り始めて来そうな、雪ではなくて。

そんな質をしている、セツナに想い馳せて。

カナタは、『雪が降るよ』と囁いて来る、鈍い色した空を見上げていた。

────そうして、そのまま、彼は。

お粗末な造りで、申し訳程度の広さしかないベランダの片隅で、随分と長い間、佇み続けた。

寒空の下、トントン……と、彼の背の側にある窓ガラスが、叩かれるまで、唯、じっと。

故に、彼のそんな姿は、何が起ころうとも、永遠に動くことがないような、風情さえ醸し出していたけれど。

「…………ん?」

窓辺にて、窓ガラスを叩いたのは誰なのか、充分過ぎる程に彼は知っているから。

なぁに……? と、物問い顔で、真後ろを振り返った。

………………本当に、随分と長い間。

空を見上げたまま彼は、佇み続けていたのだろう。

叩かれて、振り返った窓ガラスは、暖炉の火で、ずっと暖められていたのだろう室内の温もりを、彼へと伝えるように、真っ白に曇っていて。

一部だけが、素手の指先で、窓ガラスを叩いた者──セツナが拭ったらしい形に拭かれており。

そこから、顔だけを覗かせたセツナが、ぺしょり、曇りガラスに両手を付いて、ぱくぱくと口を動かし、何やら訴えていた。

──動く、セツナの唇の形を追ったから、彼が何を伝えて来たのか、カナタには判っていたけれど。

寒いでしょうから、部屋の中へ、とのセツナの訴えに、耳を貸さず。

「冷たかったろうに……」

冷えたガラスの曇りを拭い、今又、そこへと押し付けられている指先に、手袋を外し、晒した己の素手の指先を、ガラスを挟んで重ね。

「セ・ツ・ナ」

カナタは、相変わらずぱくぱくと口を動かしている、セツナの名を呼んだ。

……ゆっ……くりと唇を動かし、『少年』の名を呼べば、当人も、呼ばれたことが判ったのだろう。

曇った、薄いガラス一枚を挟んで、重ねた指先はずらさず。

ふん……? と、何ですか? と、首を傾げてみせた。

もう少し近付けば、声もきちんと拾えるかも知れない、そんな風に、体までを乗り出して、頬も、冷たい窓辺に押し付けんばかりにして。

「…………セツナ」

だからカナタは。

くすりと笑い、もう一度、セツナの名を呼んで。

一層身を乗り出し、鼻先を窓ガラスに押し付けたセツナの唇辺りに、何処までも、冷たく曇った窓ガラスを挟んだまま、己が『それ』を押し付けた。

「……………………何やってんですか、カナタさん…………」

すれば。

窓ガラス越しに受けた接吻くちづけの所為で、一瞬、ピシッと体を固くした後、トトっ……と窓辺を離れ、ばしゃんと、室内より申し訳程度のベランダへと続く扉を開け放ち。

少しばかり呆れたような表情と声を伴って、カナタの側へ、セツナが姿覗かせた。

「さて、ね。何だと思う?」

ちろり……と睨んで来た彼へ。

くすくすと、カナタは笑いを返した。

「……何、と言われても…………」

「え? 答えなんて、一つしかないだろう? 君にね、キスをしたんだよ。……窓ガラス越しだったけどね」

「…………あー……。言われなくても判ります、それは。ええ、判ります。僕が言いたいのは、そーゆーことじゃありません……」

「呆れることないだろう?」

からかうように、何をしたと思う? と尋ねてやれば、げんなりとしたセツナの呆れが、少し深まったから。

カナタは、又笑って。

セツナと共にやって来た、室内の温もりを追うように。

今にも雪が降りそうな、灰色の空からセツナを庇うように。

「お茶でも飲もうか」

己が腕で、軽くセツナを包み込んで、カナタは客室へと戻った。

「ホントに、もー……。風邪引いちゃうかと思うくらい、カナタさん、ずーーーっと外にいるから、だいじょぶなのかなー、って呼んでみれば、アレですもん……。何か、心配して損しました」

中々戻って来ない人を迎えに出た筈なのに、逆に、いざなわれるように、部屋の中へと連れ戻されて、ぶうぶう、セツナはむくれる。

「あは。御免ね? 心配掛けた? でも、少しの間、空を見上げていただけだから。……平気」

「……まあ、カナタさんが平気って言うんですから、平気なんでしょうけど。……でも、体、凄く冷たくなっちゃってますよ? だいじょぶですか? 何もこんなに寒い日に、雪が降り出しそうな空なんて、見上げなくったっていいでしょーに」

そして彼はペタペタと、存分に冷えたカナタの腕や肩に触れ出した。

「んー……、まあ、一寸ね。僕もたまには、空を見上げてみたい時だってあるんだよ。──空を見上げてね…………──

……本当に、平気ですか? と言わんばかりに。

あちらこちらに触れ出したセツナを、その時カナタは、緩く柔らかく、見下ろして。

──空を見上げて……何ですか?」

「……空を見上げて。そして、ね、セツナ。君に接吻くちづけがしたい、って。そう想うことも、あるんだよ、僕にだって」

見下ろしたセツナの暖かい頬を、冷たい両の指先を添え、少しばかり上向かせ。

触れた指の冷たさに、僅か、セツナが身を竦ませたのを流し。

冷たく曇った、窓ガラス越しでない接吻を、カナタはした。

「……あーのー」

降りて来たカナタの唇が、暫し後、ゆるりと離れて行った後。

されるがままだったセツナは、ほんの少しばかり目付きを変えて。

「何?」

「何時もしてるキスと、カナタさんが空を見空けてしたくなるキスと、何が違うんですか?」

彼は、「カナタさん、何か企んでませんか?」と、眼差しで訴えて来たが。

「それはそれ。これはこれ……ってトコかな。……気にしなくていいよ。唯、セツナにキスしたいだけだから、僕は」

唯、はぐらかしの台詞だけを、カナタはセツナへ告げて、お茶にしよう、と、セツナの手を引き、暖炉の方へと振り返った。

──冬になれば雪が降る、君の故郷や。

故郷の想い出を彩る人々を胸に描いて、雪降りそうな空を見上げるだろう君の代わりに。

君に、空を見上げさせる代わりに。

僕が、雪降りそうな空を仰いだのだ……と。

『だから』、君に接吻をしたのだ……と。

『想い出』よりも、僕を、と、接吻をしたのだ……と。

セツナには、告げることないまま。

End

後書きに代えて

『小説書きさんに100のお題』で書いたもの。

今更ながらシミジミ思うけれども、どうしてカナタは、こんなにも性格複雑骨折なんだろう……。

──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。