慶安四年(1651)、弥生。
 満開になった櫻が、明日にも散ろうかと云う日。
 小石川の道場より程ない所にある、櫻の木に囲まれた播磨坂を、ゆるりと登っていく二人の人物がいた。
 折戸雪之丞と、詠人の二人である。
 一一慶安四年の年が明けた、睦月中頃。
 漸く、普段通りの営みを送っても差し支えなくなった詠人一一エドを連れて、雪之丞一一セツは、前年暮れに交わした約束通り、箱根へと湯治へ出掛けた。
 例え、二月程の間でも、江戸から少し離れた所でのんびりと過ごそうと決め。
 二人だけで旅に発つのは、と渋った主人や影、ちゃんと帰って来るんでしょうね、と云ってのけたお芹やお手奈、帰って来たら飲もうやと、明るく云った六に見送られ、彼等は東海道を上った。
 目指す場所など、何処でも良かったし、このまま二人、消えてしまったとて、誰にも累は及ばなかったのだろうし。
 ちらりと、そんな事を、考えなかった訳ではない彼等だったが。
 このまま、何処へと風のように消えてしまって、瞼に浮かぶ人々の怒りは買いたくなかったし何より、次期将軍様の恨みなど頂くのは、御免被る話だったので。
 櫻の蕾が膨らんだ、弥生月の始め頃、二人は江戸へと舞い戻った。
 そこそこにほとぼりも冷めたのか、それ以来は何事もなく、穏やかに日々は過ぎている。
 一一江戸の賑やかさは変わらず、取り巻く者達の賑やかさも変わらず、このまま幸せな時が過ぎて行くのだろうと、そう信じられる、櫻の盛りの季節の中。
 彼等はゆるゆるとした足取りで、春の坂道を辿っていた。
 主人が待っている道場へと帰る為、櫻を愛でながら歩いて行く二人の行く手を阻む物は、吹き抜けた風に揺り落とされる、数多の淡い花弁のみ。
 花霞みの向こうにも、振り返った坂の下にも、遠に見なれた風景は広がっていた。
 

 

 又、ふわり、春の風が吹いた。
 枝を揺らし、葉を揺らし、抜けて行った風が、エドの髪に、花のひとひらを落とした。
 腕を伸ばし、その花弁を、セツは風に戻した。
 一一当たり前の。
 唯、彼等が幸福である、としか言えぬ光景が、そこにはあった。
 明日、強い風が吹いて、播磨坂を囲む櫻が散っても、寄り添い歩く彼等の姿を、変わらずに見掛けられると、真、信じられる程に。
 

 

End

 

 

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 お付き合い下さった皆様、どうも有り難うございました。
 趣味丸出しで御免なさい(笑)<時代劇マニアの言い訳。

 発作のように書き出して、別冊にupしたいんですー、海野が言い出した時代物に、毎日のように挿し絵を付けて下さったHayakawaさん、どうも有り難うございました。
 

 皆様、お読み下さって、どうも有り難う。
  

2002.12.03 海野 懐奈 拝