師走の二十日、煤払いの日。
武家の屋敷でも、町家でも、色々と世話しないその日。
「目出た目出たの、若松様よ……」
と、胴上げの唄※21が、そこかしこで聞こえて来る中。
年に一度の大掃除を手伝うでもなく、背一面に女郎蜘蛛が描かれた、女物の羽織を肩より引っ掛け、火鉢の傍で丸くなっているセツを、ひょいと主人が呼びに来た。
「雪様っ。煤払いくらい、慣わしと思って、なさる気にらならんでござるかっ」
猫宜しく、火鉢の温もりと戯れている彼を、主人はそこから引き剥がし、何とか、道場の掃除を手伝わそうとしたが。
彼の説教も、セツには届かず。
「別に、大して使ってもいない屋敷の、どの煤を払うってんだ。俺が手を貸さなくとも充分だろ」
「何を云っているでござるかっ。漸く、普通に寝起きが叶うようになった詠人様さえも、細々(こまごま)と手伝って下さっていると云うのにっっ」
仕方なし主人は、エドと云う奥の手を出した。
……しかし。
「あいつが? 起き上がれるようになったばっかりだってのに、何を余計な事やってやがる」
奥の手は、セツの眉を顰めさせるには一役買ったのみで終わり。
「……詠人っ。詠人! エドっ!!」
立ち上がり、大声を張り上げてセツは、エドを留める為に、道場へと行ってしまった。
「やれやれ……。雪様のあの気性と『病』は、草津の湯でも治らんでござるかな……」
故に主人は、襷の紐をしっかりと結び直して、何も彼も諦めたかのように首を振りつつ裏口へと消えた。
歩みが足早だった為、肩よりずり落ちそうになった羽織りをもう一度掛け直しながら道場を覗けば、埃避けの手拭いを髪に乗せた、襷掛け姿のエドがいて、セツは、何をやっているんだと、そう云おうとしたのだが。
未だ、斬られた傷が痛むのだろう、やんわりとした、何かを庇うような動きをしながら、手拭いを取り去り、道場の上がり口に座るエドの様が伺え、セツは声を飲み込んだ。
座り込んだエドの見つめる先を、共に見遣ってみれば、家綱の姿がそこにはあって。
江戸城も、今日は煤払いで何かと忙しいだろうに、あの放蕩息子は何をやって、と顔を顰めつつ、セツは様子を見守る。
間近で見つめるエド、遠くからそっと覗くセツ、彼等の前で家綱は、静かに口を開いた。
「影から、話を聞いた。兄上、大変な目に遇ったって。でも、無事で良かった……。本当は、もっと早く様子を見に来るつもりだったんだけど、讃岐守とか但馬とか……、黙らせるのに一寸苦労しちゃって。どいつもこいつも、タヌキばっかりでさ。一一だから。多分もう、貴方を暗殺してしまおうなんて無益な事は、起こさないとは思うけど……。今の俺じゃ、多分、としか言えない」
「そう……」
「だから。もう一寸、ほとぼりが冷めるまで、やっぱり何処かに……って云うのは、駄目……かな。今直ぐ、兄上を連れ帰っても、問題なんか起こらない程度の事はして来たつもりで……一一」
じっと、見つめ返して来るエドの視線をちらちらと覗きながら、起こった出来事『以上』の事を、何やら思っている風に、家綱は続げた。
「一一彼が、いいと云うならね。暮らす所など別に、この江戸でなくとも私は構わないけれど。彼が嫌だと云うなら、私も何処へも行かない」
が、エドは、薄く、けれども華やかな微笑みを湛えて、そう云った。
「彼……って……。有馬殿?」
「有馬殿、なんて呼ぶと、彼が怒るよ。折戸殿。若しくは、雪之丞殿とか雪さんって呼ばないとね。きっと、口も利いて貰えない」
「…………でも、どうして……?」
「聞き及んでいないかい? 影から」
「それは……その……触りだけ……」
セツが是と云わなければ、ここから離れる事はない、と告げたエドに、家綱は何故か悔しそうに唇を噛み締めた。
「判ったら、もう、お城へ。そうだろう? 家綱殿。貴方は将軍家のお世継ぎなのだから」
自分の事は諦めろ、と、エドは家綱を諭す。
「でも……。でもっ! 真、兄上に害が及ばないと決まった訳じゃないしっ。有馬殿……じゃなかった、折戸殿がどれだけ腕が立つったってっ!」
「大丈夫だよ。彼は私を、ずっと守ると、そう誓ってくれたのだから」
「兄上……」
「だから、お戻りを。家綱『様』」
「じゃ……じゃあっ。時々、俺も様子を見に来るっっ。それくらいなら、いいだろうっ? 誰にも迷惑は掛けないようにするからっ」
諭しを続けるエドの言葉に、家綱は食い下がった。
「感心しないね。将軍家のお世継ぎが、度々お城を抜け出すなんて事は」
故にエドは、困ったような溜息を零したけれど。
「今日は、これで『引き下がる』けどっ。絶対に又、来るからっっ。兄上の体心配だしっ。じゃあっっ」
一方的に言いおいて、家綱は道場より出て行った。
「………………エド」
どうしたものかと、肩で息をし立ち上がった彼に、漸く姿見せたセツが、声を掛けた。
「……あ。何?」
唐突に湧いた声に、ピクっと背を逸らして振り返り、エドは唯、笑みを湛える。
「一一なあ。年が明けたら、お前の体も、ちったあマシになってるだろうから。何処か、出向いてみないか?」
大股で、エドの元へと近付き、その身を支えながら、セツはそんな事を言い出した。
「出向く…って、何処に?」
「何処でもいい。それほど、遠くはない所で。…………そうだな。大山詣でにでも行くか……箱根で、湯治でもするか」
「又、どうして」
降って湧いたセツよりの話に、エドは、目を丸くする。
「……春が来るまでの間だけでもここを離れれば、放蕩な弟君も、ちったあ胸撫で下ろすかも知れねえしな。一一それより何より。お前の体が心配だと何とか云って、年中あいつに顔を出されたら、煩わしくっていけねぇ」
だから……な? とセツは、にやりと笑った。
「聞いてたんだ、さっきの話」
「まあな」
「…………そうだね。君がいいと云うなら。私が遠出出来るようになったら、何処へなりとも。君の行きたい処に、共に行くだけだよ」
だから、エドは。
そうやって人々を煙に捲いて、暫くの間だけでも、様々な煩わしさより逃れるのもいいかと答えた。
※21 煤払いの時、この唄を唄って、通り過ぎる人を誰彼となく胴上げする習慣が、江戸にはあった。煤払いは云うまでもなく大掃除の事だが、当時、十二月二十日が定例だった、江戸城の煤払いは、家光公の死後、十二月十三日に変更されている(将軍家の煤払いの定日に合わせて、武家でも町家でも、大掃除をしたのだそうな)。
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