***

 

 事件の進展は、その二日後にあった。
 呆気なく。
 大野りんの葬儀が終わってから二日、二人の刑事は手当たり次第に聞き込みをしていった。
 その結果、彼らの耳に届いたのは『大野りんは不倫をしていたらしい』、と町中をじわじわと流れる噂だけだった。
 葬儀の前日、聞き込みに行った例の病院の看護婦達も、物知り顔でその事を二人に教えてくれた。
 三日前は、何も知らなかった彼女達が。
「その噂、誰に聞いたの?」
 と尋ねると、
「出所は知らないけれど、あたしは産婦人科の子達に聞いたわ」
 と言う答えが一様に帰って来た。
 そして、産婦人科の看護婦達は、同じ質問に、
「鳥居先生よ」
 と答えた。
 そうして。
 この話の示す意味を知るため、栗田と黒沢の両名は、病院の応接室に座っている。
 三日前と同じ人物と対面する為に。
「どうも、すみません、お手間を取らせまして」
 少し暗い顔をしてやって来た鳥居肇に、栗田はにこにこと語り掛けた。
「実は、先生にお伺いしたい事が出来ましたんでね、こうしてお邪魔した訳なんです」
 畳み掛ける様に続く栗田の言葉。
 鳥居は、一層顔色を悪くし、縮こまった。
「…何でしょう」
「先生、先日私達に大野りんさんについての噂とやらを教えて下さいましたよね。あれ…一体何方から聴かされたんです?…出来れば…その人の名前を教えて戴けませんかねえ?知りたいんですよ、どうしても」
 栗田の後を引き継いで黒沢が言う。
「さあ…誰から聞いたなんて覚えていないですよ、そんな事。僕はそんな噂を耳にしたってだけで…。看護婦達なら知っているんじゃなんですか」
「彼女達に尋ねたら、皆さん鳥居先生だと答えてくれましたよ」
「…そんな……嘘です…。僕は…」
 厳しい問い詰めに、白衣の袖口を握り締めながら、医師は弱々しく否定した。
 唇を震わせ、未だ何かを言おうとしたがそれは言葉にならず、喉の奥から漏れる息となって消えた。
「先生。もう、本音で話しましょうよ。先日我々が尋ねた時、あんたは被害者の悪い噂を口にした。さも、その噂が町中に広がっているかの様な口振りで。だが、その日町を聞き込みした我々に、そんな噂の話をしてくれた人物なんかいなかったんだ。今日はしてくれた看護婦達も、まるで口裏でも併せた様にだんまりだった。あの日にもうその噂を知っていた人間が、どうして今日まで口を閉ざす?そんな必要ないでしょう?だとしたら答えは一つだ。あの日は、鳥居先生、あんたしか知らなかったんですよ。被害者が不倫をしていた事実を。……我々だって、あの日の検死報告で知ったんです。なのに、どうしてあんた知ってたんです?どうして、彼女が妊娠していた事まで知ってたんです?…誰から聞いたんです?それとも、あんたが彼女の不倫相手なんですか?」
「いえ…僕は…」
 彼は、更に否定をしようとした。
 だが、語尾は消え、彼は被りを振った。
「…そうだ…。認めるよ。僕は…彼女と付き合っていたんだ…」
 告白に、栗田達は頷いた。
 やはり、彼がそうだったのだ。
「でも、僕は彼女を殺していない!それは…信じてくれ…。黙っていたのは…私が彼女の相手だったとばれると…都合が悪いからだ」
「出世に影響しますか?」
 軽蔑した様に、栗田はうなだれる医師に視線を送った。
「それも…ある…。だが、何よりも疑われたくなかった。…判るだろう?」
「判りませんね」
 黒沢は冷たく言い放った。
「僕は彼女を殺してないんだ。痛くもない腹を探られたくはない…。僕が黙っていれば、誰にも知られずに済む。何よりも、大野には知られたくなかったんだ…」
「同僚ですしね」
「それだけじゃない」
 ひたすらに隠し通そうとした事がばれ、開き直ったのか、関を切った様に鳥居は話し出した。
「もう一年程前の事だが、死んだ彼女に相談された事があるんだ。…結婚して何年も経つのに自分達夫婦に子供が授からないのは、どちらかに欠陥があるんじゃないかって。調べて欲しいと頼まれた。大野には内緒で。だから僕は男性の不妊検査の実験をしたいから協力して欲しいと大野を騙して…そうしたら思いもよらない結果が出たんだ。彼は、無精子症だったんだ」
「無精子…?何ですか?それ」
「…俗に言う、子種が無いって奴さ。排出される精液の中に、精子がいない病気だ。彼には子供を作る能力がないんだ。一一言いにくかったが、僕はそれを彼女に告げた。彼女は暫く奇妙な表情をしていたが、判ったって頷いたよ。…それがきっかけで我々は親しくなり、体の関係までいってしまった。だから……彼には知られたくなかった。どうしても」
「大野先生は、その病気の事は?」
 質問に答える代わりに、鳥居は首を横に振った。
 一一暫く室内に厭な沈黙が流れたが、それを破る様に、医師が口を開いた。
「…こういっちゃあ何だけど…少し、ほっとしているんだ…僕は」
「何が、です?」
「彼女との関係が、どんな形にせよ終わった事に対してさ」
 ふっと鳥居は、自嘲的な笑みを見せた。
「どうして?」
「……最初に誘ってきたのは、彼女の方だった。…こっちは独身だからね、あれだけ美人に色気を振りまかれちゃあ、くらくらと寄っていきもする。一時期、本気になりかけた事だってある。…でも、彼女はそうじゃなかった。最初は惚れてる振りをしていたけれど、段々、そんな態度も薄れてきてさ。遊びなのかと聴くと、そうじゃない、本気だと答えはしたよ。愛してる、ってね。でも、ベッドでの態度は変わってた。何かこう…子供を作って欲しくてしょうがないみたいでさ」
「それって、本気だったって事じゃ……」
「いや。違う」
 再び、首が振られた。
「彼女は、唯、子供が欲しかったんだよ。誰の子供でも良かったんだ、きっと。大野以外の子供なら。一一刑事さん達はもう知っている事だから言いますけど、実際、妊娠してからの僕への態度は冷やかだった。もう、用済みって感じかな。だから、僕は彼女との関係を精算したかった…」
 一一応接室の外は、もう茜色だった。
 射し込む夕日に照らされながらこの上もない後悔の表情を、医師は浮かべていた。
 そんな彼への尋問は少し途絶えたが、今まで以上に厳しい声で、栗田が鳥居を問い詰めた。
「貴方と被害者の関係に付いては良く判りました」
「未だ…何か有るんですか…」
 もう、どうとでもしてくれ、と投げやりな声が返ってくる。
「事件当夜の貴方の行動については、以前、言われた事で間違い有りませんね?」
 念のための在り来たりの台詞だった。
「…有るよ」
 なのに、まさかの言葉が、刑事の耳を突いた。
「……何…?」
「有るよ。僕は、嘘をついた」
「そいつはどういう事だっ。俺達を馬鹿にしてんのかっ!」
「そんなつもりはないさ」
 激しく憤った栗田の叫びに、愉快そうに鳥居は微笑み掛ける。
「こんの……」
 思わず立ち上がり、相手の胸ぐらを掴み掛けた相棒を、黒沢は抑えた。
「出産の最中、中座して、彼女を殺しにでも行ったか?」
 態度は穏便だったが、言葉は刺す様に鋭い。
「いいや。…本当はね…大野の奴は、二時間程、病院を抜け出したんだ」
 けれど、鳥居はのんびりと、本当の出来事を語った。
「何だって!」
「患者のお産が終わって、十二時半頃一階に降りていったのは本当ですよ。その時、確かに大野はいた。でもそれから少しして、出掛けるって言い出したんだ。どうしても外せない用事が有るって。でもそれが上にばれるとやばいから、一緒にここで喋ってた事にしてくれって。すぐに帰ってくるからって。だから、彼が出掛けて帰って来るまでの間、僕がここにいて彼の代わりに待機することにして…。看護婦達には大野先生、ちょっと下痢でトイレって誤魔化した。彼女達も見回りなんかがあるから気付かなかったし。彼が帰って来たのは二時過ぎてたかな。で、僕はそこを離れたんだ」
「……本当だな?」
 ぽつぽつと語る医師の証言に対して、栗田は慎重に聞き返した。
 相手は、真実を語っている匂いがしたが、今まで嘘の証言で大野を庇っていた男の言葉を、おいそれとは信じられなかった。
 それに、今回の話が、真に本当とは限らない。
「…嘘じゃないよ。…それこそ、あの日夜勤だった看護婦に聴いてみるといい。二時過ぎに僕が当直医の部屋にいたことを証言してくれるはずさ。それに、大野は下痢でトイレに行ってるって…言ったことも、ね」
 言い終えて、鳥居は小首を傾げた。
 もう、全てがどうでもよくなった、彼なりの諦めの仕種だった。
「判った。それはこちらで確認する。一一所で、鳥居先生」
「ん?…何だい?もう、隠していることはないよ」
 栗田の言葉を、鳥居は静かに受け止める。
「最後に一つだけ。……大野が、殺人事件に係わっているかも知れないとあんたは知っていた筈だ。それなのに、彼を庇った理由は何だ?…同僚だからか」
「…違うよ。…そうだね、君達の言う通り、彼女が殺されたのと、彼が病院を抜け出したのとは何か関係が有るんじゃないかと考えはしたさ。もしかしたらってね。そこまで考えた。…でもね、僕は黙っていようと決めたんだ。少なくとも僕に警察が何か言って来るまでは。何も言って来なかったら一生。初めて君達が来た時、彼女が不倫してるって噂を耳に入れたのは、大野は捜査対象から外れるんじゃないかって期待したからさ。結局、墓穴を掘ったけどね。…庇いたかった。後ろめたかったから。…毎日病院で顔を会わせる同僚の妻とこっそり不倫の関係でいるって事は、結構しんどい事でね。日に日に、大野の顔が見づらくなっていった。彼が殺したにせよ、そうでないにせよ、僕は彼女が死んだことで彼女との関係の精算が出来た訳だし、もし、僕との事がばれて彼女が殺されたんだとしたら、僕は彼女の死に責任が有ることになる。だから……庇ったんだよ。大野の為に、自分の為に。彼の為に出来ることは、それしかないじゃないか」
 一気にそう言い切ると、苛められた小動物の様な瞳を、彼は刑事達に向けた。
 冷静さを保とうと、努力はしていたが、指先は小さく痙攣している。
 一一こいつは、きっと怖いんだ。
 この世に生を受けた赤子を、初めて取り上げるであろうその指先を見つめて栗田は思った。
 どんな言葉を並べても、どんなに開き直って見せても、きっとこの男は、唯、怖いだけなんだ、自分の地位を失うことが。
 同僚に恨まれる事が。
 そうだ…大野秀明が捕まらなければ、自分は証言台に立つこともない、不倫の関係を、他人に責められる事もない。
 どんなに立派な仕事をしてみても、どんなに綺麗事を言ってみても…所詮人間なんて、一皮剥けば、こんなもんなんだ。
 二人は、後味悪く、立ち上がった。
 鳥居は、立ち去る二人に目をやったが一一何も言わなかった。

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