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確か、大学二年の春休み…だったと思います。
やっぱり三月の終わり位に、大野さんから手紙が届いたんです。
変だなって思いました。
上京する時にCDを彼女から貰って、僕の方からお礼状を書いたきり彼女との付き合いは無かったので…何で、今更手紙が届くんだろうって。
随分と厚い手紙で、最初の一枚目は「元気ですか」とか、「東京は楽しいですか」とか「あの時は随分と失礼な事を言って御免なさい」とか、書かれていました。
一一あの時…ですか?
五年前、上京する時、駅のホームでばったり大野さんと会って…僕の家族の事で一寸、彼女に言われたんです。
僕の両親が事故にあった原因になった弟さんの事をどう思っているのかって。
……彼女も事故でお姉さんを亡くされたそうで……。
そして、二枚目以降には、そのお姉さんの事が書かれていました。
僕と同じに、早くに両親を亡くした自分がどれだけ姉を愛していたか、姉を失った悲しみはどれ程のものだったか。
僕が東北で両親を亡くした頃、自分も同じ東北で姉を失ったんだと。
…偶然の一致って怖いですね。
同じ時期に、同じ所で肉親を亡くすなんて…。あんな旅行、行かなければ良かった…。
…え?ああ、御免なさい、話が逸れましたね。
それから先は…一寸言いにくい事なんですけれど…。
一一自分の姉は自殺として警察は処理したけれど、本当は自殺じゃない。姉は殺されたんだ、悔しい事に証拠は無いけれど…自分には判る。この数年、確信は持てなかったけれどもやっと判ったんだ、姉は自殺じゃ無い、殺されたんだって。…そして…犯人も知っている…。
でも、だからと言ってどうしようも出来ないし…どうしようか迷ってもいる…。だからつい、同じ様に愛していた肉親を亡くした貴方に手紙を書いてしまった事を許して欲しい…。
…つらつらと、そんな事が書き綴られたその手紙は、僕にくれたCDの話で終わっていました。
「CDは、気に入ってくれたみたいですね。『菩提樹』はどうでしたか…」
菩提樹の根元で甘い夢を見ていた旅人は、その安息の拠り所を去って行く。ここにお前の拠り所があるのだと云う枝々の囁きを振り返ることなく。なのにそこから遠く離れた今も、旅人には、お前の安らぎはここにあるのだと云う、菩提樹のざわめきが聞こえる…。
私の今の心情は、まさにあの歌の詞そのものです。
私は今、ここにいる。なのに、私には旅人の様に安息の地への枝々の誘いが聞こえます…。
お前の安らぎは、ここに有るのだと……。
そこから、遠く離れた今も。
…私は、姉を殺した人をこの手に掛けるかも知れない……。
一一それっきり、彼女から何かが送られてくる事は有りませんでした。
昨日まで。
…いえ、手紙ではありません。手紙の様なものは何も入っていなくて、唯、あの日僕にくれたのと同じCDと本が一冊。
本ですか?シェイクスピアです。『オセロー』。
…本の意味は、良く判りませんでしたけど…彼女から貰った手紙は余りにも普通ではなくて、暗記するほど読み返してましたから、CDの方は彼女が手紙に書いて来た事を指すのではないかと思ったんです。
心の安らぎを求める為に、彼女が手紙に書いた様にお姉さんを殺した犯人を、殺す気になったんじゃないかって。
最初に手紙を貰った時は、軽井沢の方では何も事件が起きた様子もなかったですから、僕も手紙の事なんか忘れかけていたんですけど……。二度目でしょう?
物凄く、不安にかられて…。
彼女が何か、してしまうんじゃないかって…。
何しろ彼女は……。
そう言い掛けて、圭一郎は黙った。
「何しろ、彼女は…何だい?」
だが、刑事の問い掛けに、
「明彦一一弟の主治医の奥さんですから…。心配になって…」
と、無理矢理な笑顔を作って答えた。
「良く判ったよ。どうも有り難う、参考になった」
栗田は明るく言って、圭一郎の肩を叩くともう帰ってもいいよ、と言った。
「はい…。じゃあ、これで失礼します」
「送ろうか?何処に泊まってるの?」
ぺこりと頭を下げて立ち上がった彼に、栗田が声を掛けた。
黒沢も立ち上がる。
圭一郎は暫し思案しているようだったが、もう一度、今度は少し深く頭を下げた。
「すみません、お言葉に甘えます……」
「いいよ。じゃあ、行こうか」
そうして三人は、部屋を後にした。
「そうか、圭一郎君は医者の卵なんだ」
彼を送る車の中で。
様々な会話を交わすうち、栗田達は大分、圭一郎と打ち解けていた。
「ええ。未だ卵にもなってないですけど」
「でも、偉いね、ご両親の後を継ぐなんて、さ」
「……はい…」
そんな会話を交わすうち、車は国道十八号線を下り、幾つか角を曲がって小諸市へと入っていた。
川沿いのホテルはすぐそこだ。
「あの…お願いが有るんですが」
圭一郎が、思い詰めた様に切り出したのはそんな時だった。
「なんだい?」
黒沢が、後部座席を振り返りながら言う。
「大野さんの事件…何か判った事があったら教えてください。知りたいんです、どうしても」
遠くを見ているかの様に、しかし真剣に言う青年の態度に、二人は少し顔を見合わせたが、栗田は快く承諾した。
「いいよ。教えられる範囲のことなら」
「そうですか。有り難うございます」
又、ぺこりと一礼して、圭一郎は止まった車から降りた。
「僕は、暫くここにいるつもりですから」
「判った。じゃあ、又。君も何か気付いた事があったら、教えてくれよ」
「はい。…それじゃ」
走り去るパトカーに背を向けてホテルへと消えてゆく圭一郎を、バックミラーで見送りながら栗田は言った。
「なあ…黒沢」
「ん?」
「彼…未だ何か、隠してると思わないか」
「多分な…。でも、彼は大野りんが誰かを殺したんじゃないかって、軽井沢へ帰って来たんだろう?彼に隠している事があったとしても、事件とは余り関係ないんじゃないか?…だって、そうだろう?殺されたのは、大野りんの方なんだから」
「…そうだな」
きっと関係ないさ。
栗田も、黒沢同様、言い聞かせる様に心で呟いた。
殺されたのは、大野りんの方だ。
フロントで鍵を受け取り、圭一郎はホテルの部屋へと入った。
警察に告げていない事は、未だ沢山あった。
一一貴方には、判るはず。私の想いが。
だって、貴方は私の同類。
貴方が明彦君に対する深くて暗い想いを捨て去らない限り。
愛する者が、愛する者を死に追いやるの。
貴方なら、どうする?
私と同じ事をする?それとも、愚かだと、笑う?
貴方は、明彦君を未だ憎んでいる?恨んでいる?
……御免なさい…こんな事を書くつもりはなかった。
けれど判って。
私には、もう菩提樹の囁きを振り切る事は出来ないけれど、貴方にはそれが出来るわ。 私はシェイクスピアになって見るつもり。
枝々の囁きに、私は振り返ってしまったから。
『オセロー』って、知ってる?
私は、あの戯曲の様に…やってみるわ…。
でも、ね。もう一度だけ、書くわ。
貴方は忘れて。木々の囁きを。
だから私はあの日、貴方にあの曲を贈ったのよ。
あの手紙には、こんな続きがあったのだ。
だが、圭一郎は警察には言わなかった。
そして彼は外を見つめる。
外はもう日が落ち掛けていて、眼下の千曲川も黒く流れていた。
「僕には判らない…。何が正しくて、何が正しくないのか。誰が正義で、誰が正義じゃないのか。判らない。だから言えない。僕は警察じゃない、法律じゃない、僕は人間。…何も出来ない、唯の人間…」 |