同日、一切の人気が絶えた夜半。

王城の最も奥まった区画に位置する、王族の私室が並ぶ白い廊下の突き当たりに一人佇み、アレンは、壁に掛かる一枚の肖像画を見上げていた。

一対の碧眼が見詰めるそれに描かれているのは、ローレシア王国初代国王──勇者アレフの立ち姿。

ロトの武具と呼ばれる、青鍛鋼なる希有な金属で出来た不可思議な青色に輝く兜や甲冑を着込んで、腰には『ロトの剣』を帯びた出で立ちをしている額縁の中のアレフは、アレンと同じ漆黒色の髪を僅かに靡かせ、瓜二つと言えるまでに彼に能く似た面の中の碧眼を少々だけ細めながら、穏やかに笑んでいた。

アレフは己の生き姿を写し取られるのは苦手だったらしく、その肖像画も彼の死後に描かれた物だが、アレンの父も祖父も、存命だった頃の彼を知っているから、それは確かに『アレフ』で。

「曾お祖父様は、遠い御先祖様の生まれ変わりと言われた方だったっけ……」

伝承が事実ならば、このアレフの姿は、勇者アレクの姿でもある、とアレンは独り言ちる。

「勇者ロト、か…………」

呟いて、再度、曾祖父の絵姿を見詰め、又、呟いて。

彼は俯いた。

──夕刻、歯痒さを堪えながら列席した議会にての議題は、世界一の『魔法使いの国』ムーンブルクの王城を一夜にして陥落せしめた、邪神教団の配下だと言う魔物の軍勢から、如何にしてローレシアを守るかに終始した。

ロトの盟約に基づく同盟国ムーンブルクへの、救助や支援や偵察部隊の派遣に関することも話し合われはしたが、何方かと言えばそれは二の次で、列席した誰もが、暗黙の内に、ムーンブルクに手を差し伸べても最早手遅れ、としていた。

……それが、アレンには堪らなかった。

生まれて初めて殺害された者を目にし、剰え、息絶えた彼をその腕に抱いたが為に。

だが、玉座の間にて父王に釘を刺されてしまった彼には、今直ぐムーンブルクに、とは言い出せず、叶うなら自ら発ちたい、との想いにも蓋をせざるを得なかった。

王太子が言うべきことではないから。

持って生まれた立場が、決して許しはしないから。

……でも。それでも彼は行きたかった。ムーンブルクに。

一人でも、生き残っている者がいるかも知れぬなら。

救える命があるなら。

それに、ムーンブルク国王以外の王族──王妃や、彼の王家唯一の子女であり、王位継承者でもある王女、ローザ・ロト・ムーンブルクの安否は不明のままだったから、余計、ムーンブルクへ、との想いは、アレンの中で駆り立てられた。

……あの兵士は、ムーンブルク王は無念の最期を遂げた、とは言ったが、王女のことは何も触れなかった。

ならば、可能性は低くとも、彼女は生き延びているかも知れない。幼き頃に一度だけ対面したローザ姫は、生きていてくれるかも知れない。

…………そう思うだに、アレンの心はムーンブルクへと飛んで、だが、王太子と言う立場に歯止めを掛けられて。

「……ローレシア王国王太子としては、失格なんだとしても。一人の人間としては、きっと正しい」

揺れる想いを抱えながら曾祖父の肖像画を見上げ続けたアレンは、やがて、己が碧眼に決意を灯した。

────許されぬと言うなら、許されぬまま、ムーンブルクへ行こう。

一人ででも。一人の人として。

……との決意の灯を。

曾祖父の絵姿を瞳に焼き付け、踵を返したアレンは、夜半の廊下を駆け抜けた。

足音だけは忍ばせて自室に取って帰った彼は、衣装戸棚を引っ掻き回し、ローレシア王国騎士団の訓練に見習い騎士達と共に参加した際に仕立てて貰った、青色した下級兵士の服を探し当て、袖を通すと、今度は別の箪笥から、革の鞘に納まる銅の剣を引き摺り出す。

ローレシアでは、十八の誕生日を迎えると同時に成人と見做される為、もう間もなく十七の誕生日がやって来るとは言え、未だ十六歳である未成年のアレンには、何時でも自由に出来る私物と言う意味では、稽古に使う木製の模造剣と、やはり稽古用の銅の剣しか持たされていなかった。

彼に、彼だけの、王族として相応しい剣の帯刀が許されるのは、一年と数週間後に迎える、十八の誕生日と決まっていた。

その為、心許なくはあるが、無いよりはましだと銅の剣を背に負った彼は、耳当て付きの縁無し帽と風防眼鏡も身に着けてから、文机の引き出しを開け、最奥に仕舞われていた硝子瓶を丁重な手付きで取り上げて、そっと蓋を外す。

…………硝子瓶の中に詰まっていたのは、総額で五〇ゴールド程の銀貨や銅貨だった。

王族である彼には、財布だの硬貨だのを携える必要は無い。

幼い頃などは、金と言う物の存在さえ彼は知らなかった。

食べたい物も、欲しい物も、誰かに一言告げるだけで、何処からともなく出てくるのだと思っていた。

そんな彼に、金なる物を、金の得方や使い方を一から教えてくれたのは、城下町の人々だった。

無邪気な顔をして城を抜け出し、街場の子供達と一緒になって遊び、自分達にも懐いてくれる祖国の王子を人達は可愛がり、差し支えない程度に『世間』を学ばせた。

何時かきっと、王子殿下の為になる筈と、「お金と言う物は、働いて初めて得られる」と言って聞かせ、細やかな手伝いや遣いを頼んでは、彼に『お駄賃』を与えた。

……そうやって、城下町で自ら『働いて』得た、人々の想いが籠った五〇ゴールドを、今こそ使わせて貰おうと、小さな革袋に詰めて懐に仕舞い、それよりも遥かに大きな革袋を、腰に巻いた革帯にぶら下げた鞄に何とか押し込め、ローレシア王家の一員である証の、紋章入りの指輪は銀鎖に通して首から下げて。

最後に、厚い手袋を嵌めた彼は、自室を抜け出す。

昔取った杵柄と言う奴で、誰にも見咎められず城内より抜け出すなど、彼には容易かった。

……でも。もう間もなく、正門近くの塀を乗り越えられると言う所に辿り着いた時。

「アレン。何処へ行く?」

どうやら待ち構えていたらしい者に、彼は、物陰より声掛けられた。

「……父上…………。その…………」

声の持ち主は父王で、ギクリと身を強張らせ、彼は立ち竦む。

「その? 何だ?」

「……ムーンブルクへ。…………私は、ムーンブルクへ参ります」

「………………そうか。では、行って来い」

己の考えなどお見通しだったのだろう父王に見付かってしまった以上、きっと、城内に引き戻される、と思いつつも、意を決してアレンが告げれば、父王は、拍子抜けする程、あっさりと言った。

「父上?」

「……全く、馬鹿者が。だが、儂が其方だったら、同じことをしただろう。…………見逃してやる。見なかったことにもしてやる。だから、行って来い。その目でムーンブルクの悲劇を確かめて来い」

「父上…………」

「但し。帰城後には、儂の命に背いたことに対する相応の罰が待っていると思え。如何なる惨状を目にしようとも、挫けることは許さぬ。……良いか?」

「………………はい。固より覚悟の上です。……有り難うございます、父上。行って参ります」

暗がりに佇む父の言葉が直ぐには飲み込み切れず、きょとんとなった彼に、父王は強い口調で告げ、アレンは、深々と頭を下げた。

「……無事に戻って来るのだぞ」

「言われるまでもなく」

────夜半の王城内で交わされるには少々声高だった、父子の長くはないやり取りが終わる頃には、辺りを見回っていた兵士達や、城門を守る者達にも、アレンが一人旅立とうとしているのが知れ。

「いってらっしゃいませ、アレン王子殿下」

「ご武運をお祈りしております!」

「御身を大切に、何卒、無事のご帰還を……!」

何時しか正門前に居並んだ兵士達に、そして父王に見送られつつ、アレンは、生まれ育ったローレシア王城を後にした。