─ Lorasia〜Liriza ─
────そうして、彼の『冒険』の旅は始まった。
人々が寝静まった夜半に。
日々数を増す一方だと聞き及んでいる、魔物達溢れる街道や広野を夜の闇の中行くのは、無謀としか言えぬ行為だとアレンも承知していたが、逸る心に背を押され、彼は夜の街道を西へと走った。
ローレシア王国王都・ローレシアは海に程近く、商業港を兼ねた軍港も王家は所持しており、以前は、その港より、ローレシアとサマルトリアの狭間に位置する自由都市・リリザ郊外の港や、ムーンブルク王国領内・ムーンペタの街近くの港への定期船も出ていたが、海を棲処とする魔物達が蔓延り出した直後、定期船は廃止され、各港も半ば閉鎖されてしまい、現在、ローレシアやムーンブルク大陸近海を行く船は、哨戒任務に就いたローレシア海軍所有の物か、近在の漁師達が仕事に使う小舟程度だ。
故に、やはり現在、ルーラの術やキメラの翼に頼る以外でロト三国内を行き来するには、陸路を辿る他ない。
ローレシア城下は固より、大きな宿場町には乗り合い馬車の停車場もあるし、貸し馬屋もあるが、旅の資金は五〇ゴールドのみのアレンには、馬車や貸し馬を使えるゆとりなどなく、自らの足で以て野山を越え、ムーンブルクまで辿り着くしかなかった。
何しろ、長旅に挑む者には必須な携帯食も、薬草の類いも、彼には皆無なのだから。
獣や魔物を狩って野営をすれば、食事や宿の問題は何とかなるが、薬草類を調達出来なかったのは、彼にとって痛手だった。
────伝説のロトの剣を意のままに操る優れた剣士でありながら、魔術をも駆使した彼の曾祖父アレフや、勇者アレクとは違い、アレンには魔法が使えない。
どうしてか、アレフとローラの第一子だった彼の祖父は一切の魔力を持たず、父王も、アレン自身も、魔術の才能だけは発露させられなかった。
要するに、ローレシア王家の直系は、誰一人として魔法を操れないのだ。
サマルトリア王家やムーンブルク王家の者達は、例外無く魔術を使えると言うのに。
その事実は、口さがない市井の者達の間に憶測を生み、ローレシア王族は、アレフの血──延いてはロトの血を、本当は受け継いでいないのではないか、との噂まで立てさせたが、アレンの祖父も父も、喧
言うまでもなく、アレンも。
肉親達同様、アレフが伝えた剣技を学び、努力を以て己が物とした今の彼と対等に立ち合える相手は、既に、父王か、彼の剣の師匠を務めた近衛師団長くらいしかいない程だ。
しかし、それは、あくまでも『お稽古』の上の話。
齢十六にして、アレンの剣技がロトの末裔に相応しいそれであるのは事実だが、彼には実戦経験はない。
武を尊ぶ気風のローレシアでは、相手が王族であろうとも、剣を手に立ち合う以上手加減などする者は皆無だが、彼と鍛錬を共にした兵士達の中に、無意識の遠慮がなかったと言えば嘘になる。
そして、その自覚はアレンにもあった。
己には経験が足りなさ過ぎる、と言う自覚も、己の剣技が、本当に魔物相手に通じるか否かは判らない、と言う自覚も。
どんなに強がってみた処で、魔物の中では最もか弱いスライムにすら殺され兼ねないのだ、とも。
だから、薬草類を持ち得ていない現状は彼にとっては死活問題で、何処かの村か町に辿り着けたら、真っ先に薬草を調達しなくてはならない彼は、旅の足の速さを犠牲にしてでも、資金の温存を選んだのだが。
翌日午前、何とか、ローレシアの西に位置する国サマルトリア領──を経由しなければムーンブルクへは行けない──へ続く南街道沿いの小さな村に辿り着いた際のアレンの姿は、見事なまでにボロボロだった。
それこそ、僅か一夜にして。
見て呉れは可愛いくせに、人体を溶かして喰らおうとするスライムや、生理的に受け付けない、ねっとりした粘液に覆われているオオナメクジの化け物や、銅の剣のみで倒すには硬質過ぎる殻を持ったアイアンアントに幾度も襲われた彼の体は、あちらこちらが傷付いており、血塗れの泥塗れで、とてもではないがローレシア王太子には見えなかった。
それでも、路銀の足しになればと、食料代わりになる魔物や、武具や生活用品の材料になる魔物達の骸を突っ込んだ、早くも持ち主同様に痛み始めた革袋を引き摺りつつ村の関所を潜った彼を、素朴な村人達は気に掛けてくれ、本当に粗末だったが村唯一の宿屋も紹介してくれたし、価値の見出せる魔物も引き取ってくれた。
どんな事情があるのかは知らないが、こんなご時世に、一人夜道を行くなんてとんでもない、と叱りつつ、それでも行きたいならと、火打石や水筒なども分けてくれて、念願の薬草類を調達して直ぐ、親切な村人達に感謝しながら、アレンは再び旅立った。
──立ちはだかる如くに襲い来る魔物達と戦って、傷付きながら倒しては薬で怪我を癒し、金を稼ぎ、道中で出会った心優しい人々に様々面倒を見て貰いつつ、彼は進んだ。
金も少しずつ貯まり始めたものの、未だ未だ節約を第一とするしかない懐事情の所為で野宿ばかりを強いられる一人旅は、王族としての暮らししか知らなかったアレンの想像を遥かに超えた、過酷の一言に尽きるものだったけれども、彼は、そんな日々に楽しみや喜びを見出し始めていた。
道中で袖振れ合った人々の誰も、王太子としてでなく、名も知らぬ旅の少年剣士としか彼を扱わなかったから。
心が、酷く軽くなった気がした。
巡り会った中には、親切で心優しき人々ばかりでなく、僅かの間に大分格好が草臥れてしまった彼を一瞥し、汚らわしいと言わんばかりの態度を取る者達もいたから、憤慨や憤りを覚える刹那もあったが、それでも、過剰な期待を掛けられることなく、思うままに振る舞っても許される毎日が、アレンには、宝物のように感じられた。
我ながら不謹慎だと思うが、父王の反対を押し切ってでも旅に出て良かった、と苦笑してしまう程に。
誰とも話さず黙々と街道を往く昼も、獣や魔物の気配に神経を尖らせながら焚き火に向かい一人過ごす寂しい夜も、気にならなかった。
何をどうしたらいいのかさっぱり判らぬ料理に挑み、到底食えぬ物を拵えてしまった経験も、ままよ、と口にした魔物の肉に当たって腹を壊した経験も、いっそ新鮮だった。
後になって『ぼったくり』だと判った代金を寄越せと言ってきた宿屋の主の言葉に、そんなものなのかな、と素直に頷いてしまった失敗も、覚えたての『値切り』を実践してみた商店の主に、商売の邪魔だと店先から放り出された失敗も、笑い飛ばせた。
何も彼もが目新しくて、物珍しくて、己が如何に世間や世俗を知らずに生きていたのか、自分のことは自分ですると言う、市井での当たり前に倣うのがどれだけ難しいか、学べもした。
サマルトリア領に近付くに伴い、少しばかり魔物の強さが増してきた感はあったが、戦い方のコツも掴め始め、怪我を負わされる回数も減り、宿に連泊し、ゆっくり体を休められる金銭的なゆとりも出てきて。
旅は順調に軌道に乗ったと言え、このまま行けば、ムーンブルクへの道行きは順風満帆なものとなるのではないか、とすらアレンは思い始めた。
国境を越え入った自由都市リリザでは、旅の必需品以外に、サマルトリア王国王太子アーサー・ロト・サマルトリアも、己と同じく、周囲の反対を押し切ってムーンブルクへ旅立ったらしい、との噂も仕入れられ、心強さも覚えた。
ロト三国の王達は従兄弟同士で、且つ、喧嘩友達でもあったローレシア王とムーンブルク王は、アレンが五つくらいだった頃、年甲斐もなく、盛大な、それでいて低次元な口喧嘩をやらかし、仲裁に入ったサマルトリア王も巻き込んで、「当分、お前達の顔は見たくない!」とやってしまったが為、親達のとばっちりを喰らったアレンは、ムーンブルクのローザ姫同様、サマルトリアのアーサー王子にも幼い頃に一度だけ対面したきりだが、己と同じロトの血を引く兄弟国の王子が、何処までも己と同じくムーンブルクに旅立った事実は、アレンには喜ばしかった。
もしも、何処かでアーサー王子と落ち合えたなら、共にムーンブルクを目指せる、とも思わされ。
今の処、旅は順調なのだし、道連れは多い方がいいかも知れぬと、アレンは、リリザを経由し、一路、サマルトリアとムーンブルクを分ける関所の一つであるローラの門に向かうつもりだった足先を変えて、サマルトリア王国王都を目指すことにした。