─ Liriza ─
一晩中泣き濡れた夜を終えた二日後の午後。
アレンはリリザに到着した。訪れるのは二度目となる街。
街の門を越えた時にはもう、志や目的を同じくする旅の道連れを……、との考えは、彼の中から消えていた。
たった一人の人物を捜して、あちこちを行き来させられた疲れが、彼に諦めを覚えさせていたのも理由の一つだったけれど、最大の理由は、やはり先日の出来事にあった。
唯でさえ、何よりも尊いのは死であり滅びである、との教えを説くのが邪神教団だ。
彼等にとって、殺戮は善行でしかなく、ムーンブルク王城は、そんな教団配下の魔物達に滅ぼされた。
だから、この先、事態や事情がどうなろうとも、ムーンブルクへの旅を続けながら教団の思惑を探ろうとする限り、魔物だけでなく人もが混ざる教団信徒達との戦いは避けられぬ筈で、人を殺すこと躊躇わぬ『人』と対峙する以上、こちらも人を殺さざるを得ない。
故に、アレンは、アーサーとの合流に見切りを付けた。
自分が味わった辛さを、彼には抱えさせたくなかったから。偽善と呼ばれる想いでしかなくとも。
「それにしても、疲れた…………」
もう、最後まで一人旅でいい。今晩、リリザで休息を取ったら、真っ直ぐローラの門を目指そう。
……そう決めて、彼は、街で一番大きな宿屋の入口を潜る。
アーサーには辛さを味わわせたくない、と言う想い以上に疲れに負けていた。
今だけは何も彼もどうでもいい、全てがどうでもいい……と、かなり投げ遣りになっていた彼は、懐事情をも無視した。
他人の手による暖かい食事を摂って、たっぷりの湯を使って旅の埃を落とし、太陽の香りのする寝台に飛び込み、ひたすらに眠りたかった。
あの夜のことは固より、サマルトリア王都に足を伸ばしたりさえしなければ、今頃は遅くともローラの門は越えていただろうことも、アーサーを捜す為だけに一月近くを無駄にしてしまったことも、忘れてしまいたく。
八つ当たりに近い憤りや、余りにも空しい疲れを肩に乗せたアレンは、宿の受付で宿泊の手続きを済ませようと、主にそっぽを向き始めた足を引き摺りつつ進んで…………ふと。
帳場の横に設けられた、食堂兼酒場の円卓の一つを占めている、翠色の司祭服に身を包んだ少年に目を留めた。
癖が強いらしい、赤混じりの、金にも見える茶の髪を落ち着けさせる目的も兼ねている様子の、ヘッドギアと呼ばれる防具を被り、服と同じ翠色した双眸をキラキラと輝かせつつ、辺りを眺めながら茶を啜っている少年に。
…………アレンが少年に意識を払ったのは、彼の面が、目を引く程に整っていたからだった。
間違いなく穏やかな人となりをしているのだろうと、容易く想像出来るまでに柔和な笑みを湛える彼の顔立ちは、美少年、若しくは美童、との例えが実
アレン自身も良い見目をしているけれども、彼の面立ちには、美少年との例えは似合わない。
精悍とか、然もなくば男前とか言った類いの例えが似合う口で、そんな自身とは一線を画した、悪く言ってしまえば『なよなよしい』、男子らしからぬとも相成る少年の面は、男子は逞しいのが当然、と考えるローレシア人たるアレンには物珍しかった。
故に、「本当に男……?」との失礼な感想すら抱きながら不躾に少年を凝視し、そこで、はた、と。
もう十年以上も前の記憶だけれど、アーサー王子は、確かあんな顔ではなかっただろうか……、と漸く思い至った彼は、ぼっさりと少年を見詰めていた碧眼を慌てて逸らした。
例え、彼がアーサー本人だったとしても、共には行かぬと決めたのだ。
「あの……、失礼ですが」
「……はい。何か?」
「人違いだったら申し訳ありません。その……、もしや、そちらは、ローレシアの王太────」
しかし、時既に遅かった。
注がれる視線と、その持ち主に気付いたらしい少年は、パッと立ち上がり様、小走りにアレンへと近付いて、朗らかに言い掛けた。
「────あのっ!」
声も潜めず、有ろう事か、アレンの身分から確かめようとした彼の声を、咄嗟の叫びで遮ったアレンは、思わず、相手の口許に指先を強く押し付ける。
こんな街中で、唯でさえ人目を引く者に、大声でローレシア王太子などと叫ばれては堪らない、とばかりに。
「ええと……? 貴方は、アレン王子殿──」
「──だからっ! …………ええ、私がアレンです」
だと言うのに、彼は、押し付けられた手をやんわりと取り上げると、再び、王子殿下、と言い掛けてくれて、渋々、アレンは小声で名乗った。
──ムーンブルク目指して旅立ったあの時は、自身の中に芽生えた想いに正直に、との一念しか抱えていなかったから深くは考えなかったが、旅を続ける内に、アレンは、必要に迫られぬ限り己の身分は隠した方が利口だ、と悟った。
魔物達の台頭によって商隊の列すら余り見掛けなくなり、他国の事情や世界情勢を一般に伝える存在が激減した昨今だと言うのに、ムーンブルク王都で不穏なことが起こったらしいと、人々は既に知っていると気付いたから。
……ムーンブルクで惨劇が起こったやも、と市井の者達に伝わり始めている以上、ローレシアの王太子である彼が、供も連れず兵も率いず、単身ムーンブルクへ向かっているのが公になるのは具合が良くない。
ロト三国の盟主国でありながら、同盟国であるムーンブルクの一大事に、ローレシアは王子一人のみを向かわせただけなのか、ムーンブルクへ手を差し伸べようとはしないのか、と世間に思われてしまったら、ローレシア王家の立場が拙くなる。
彼が故郷を飛び出しムーンブルクへ向かったことも、噂として囁かれ始めているが、噂は所詮噂でしかなく、噂の範疇に留まっている限り、後々幾らでも誤魔化せるから、せめて、もう少しだけでも詳しい事情や事実関係を掴み、ローレシアとサマルトリア両国が、今回の事態に関する立場を明確にするまでは、己が身分は隠し通すに限る、とアレンは考えた。
にも拘らず、少年──アーサーで間違いないらしい彼は、隠した方が利口な己の身分を懲りることなく二度も言い掛けたので、又、埃や泥や血がこびり付いた革手袋をしたままなのも忘れ、ぐいぃぃぃ……、と押し付けた指先でアーサーの口を塞ぎ、
「貴方は、アーサー殿ですね? ……アーサー殿。このような所で、出自のことは口になさらぬ方が宜しいかと」
口調や潜めた声は穏やかに、しかし、もう少し考えて物を言え、との意味持たせて、彼は瞳に力を込める。
「ああ、そうですね。申し訳ありません、思慮が足りませんでした。──はい。私がアーサーです。いやー、捜しましたよ、アレン殿」
が、アーサーは堪えた風もなく、喜怒哀楽が激しいのか、それとも素直過ぎるのか、笑顔を引っ込め、アレンの無礼をあからさまに訝しがった次の瞬間、今度はパッと顔を輝せつつ彼の右手を両手で握り、再び、にこにこと笑みながら、すらっと言った。
捜しましたよ、と。
「……………………捜したのは、こちらですっ!」
その所為で、思わず。
それはこっちの科白だ! とアレンは叫び、ギリギリと、革手袋が擦れる音するまで右手を握り締めた。
「あ、そうなんですか?」
「……そうなんですか、ではなく…………」
「え? 私は何かおかしなことを言いましたか? あ、と言うことは、私達は擦れ違い続けてしまったと言うことですね? 申し訳ありません。もっと早くに、何処かの街でじっとしていれば良かったですね」
「………………………………そう、ですね…………」
それでもアーサーは、何処か的外れなことばかりを言って寄越して、抱えていた身体的な疲労に、精神的な疲労が一気に伸し掛った錯覚に陥ったアレンは、力無く頷いた。
固めた拳をアーサー目掛けて繰り出さなかった己を、心から褒めたかった。