─ Moonpeta〜Moonbrooke ─
早朝の冷たい水を嫌がり暴れるのを宥めつつ、隅々まで洗って、濡れた毛も乾かしてやったら、仔犬は、見違えるようになった。
元々からとても良かった顔立ちが一層引き立って、白い毛も輝きと柔らかさを取り戻し、貴族に飼われていると言われても信じられる見場を得た。
なので、これならば、と確信したアレンが、人の良さそうな宿の女将に、それとなく仔犬の話を振ってみたら、飼うのは無理だが飼い主探しなら引き受けてもいい、と言ってくれたので、彼も、成り行きを知ったアーサーも、心置き無く宿を後に出来た。
「何とかなりそうで良かったー……。本音では、凄く気になってたんですよ。あの仔、目が赤かったでしょう? 毛も白かったから、もしかしたらアルビノなんじゃないか、って心配で心配で」
「アルビノ?」
「昔の言葉で言う、白子ですよ。髪とか目とか肌の色が抜け落ちている……とでも言えば判り易いですかね。そんな感じで生まれる子が、稀にいるんです。生き物の種類の別なく」
「なら、人でも?」
「はい。見た目の違いは、体の色──色素がない、それだけなんですけど、アルビノとして生まれた生き物は、体が弱い場合が多いらしくて。誰かに飼って貰えないと、あの仔は……、って」
「へぇ……。そうなのか。なら、余計に一安心だ。……って、それはそうと。どうして、アーサーはそんな知識まで?」
「え? あ、僕の趣味の一つは読書だからかと。趣味の一つと言うか、正しくは、読書に励まないと一番の趣味に打ち込めないと言うか。僕の趣味は、古代の謎技術の解明や研究や復刻なんですよねー。楽しいですよー、凄く」
「…………へ、へぇ……。それは又…………」
「……あ。アレン、今、酔狂な、って思いませんでした?」
「………………御免、少しだけ思った……」
何時もの換金作業を終えてから、道具屋を覗き、次いで武器屋を訪れ、ああでもない、こうでもない、と散々頭を捻って財布とも相談し、無一文に近くなる覚悟の上で、アレンには鋼鉄の剣を、アーサーには鎖鎌と鎖帷子の二つを調達して、漸く。
旅の目的地、ムーンブルク王城へと、彼等は足踏み出した。
国境の関所からムーンペタへの街道沿いに比べれば、の話だけれども、ムーンペタからムーンブルク王都への街道沿いには多く集落が点在していたので、楽と言えぬこともなかったが、両都市を隔てる距離は、ローラの門とムーンペタを隔てるそれよりも尚あり、この大陸に上陸してよりと然して変わらぬ疲れ具合に悩まされつつ、彼等が先を急ぎ始めて三十日と少し。
後一山越えればムーンブルク王都が見えてくる辺りに、二人はいた。
ムーンペタで組んだ旅程では、王都まで二十日以内に、との計画だったので、十日以上も遅れた計算になるが、調査や探索を終えた後は、湖の洞窟からリリザへ戻った時と同じく、キメラの翼を利用しムーンペタまで戻れるようにしておいたから、計算が狂ったことは一先ず忘れ、半日もあれば越えられるだろう山道に、彼等は分け入る。
「ん? 何だろう、この臭い」
「何か、変な臭いが……。……腐臭…………?」
──予想通り、数刻で着いた山頂で、二人は、異臭を嗅いだ。
何処からともなく漂ってくる異臭は、某かが腐った臭いとしか思えず、まさか、と見合った彼等は慌てて駆け出した。
「……あれ、が……ムーンブルク王都…………?」
「そんな……、酷い…………」
…………走り、山頂より僅か南に野道を下れば。
眼下に広がる野原の向こうに霞み浮かぶ、ムーンブルク王都が見えた。
遠目からも、どす黒い紫色した煙のような物に包まれた、崩れ、煤けた王城を晒しているのが、はっきりと判る無惨な都が。
都を彩っていた筈の、生きとし生けるものの全て、疾うに息絶えたと無音で以て物語る、そして見せ付ける、絶望を形にした都の姿が。
────…………『魔』の国、との別称を持つ、ムーンブルク王国。
その建国は、かつて、世界の文化、経済、権力の中心だったアレフガルド大陸の覇者であり、二つもの勇者伝説を生んだラダトーム王国よりも古いと言い伝わる。
多くの偉大な魔術師を世に送り出し、『世界一の魔法使いの国』と謳われた。
世界のほぼ中心に位置する大陸の、その又中心に置かれた王都は、冠された名にも、古より続く歴史にも恥じぬ栄耀栄華を誇っていた。
百年前には、王家の血筋に勇者ロトの血すら引かれ、例え、西から陽が昇ろうと、ムーンブルクが滅びることなど有り得ぬ、とまで人々に言わしめた。
……栄華を約束された国。栄華の中に在り続ける筈だった国。
だが、その王都は、今。
「アレン…………」
「……行こう。その為に、ここまで来たのだから」
近在の山の頂から見下ろせば全容は窺えると言うだけで、日没までに辿り着くのは難しいだろうに、滅びの姿を見せ付けてくるのみならず、吐き気すら催す異臭まで漂わせるムーンブルク王都を前に、二人は、本当に刹那の間だけ立ち竦んだが、直ぐに意を決し直した。
…………この段になって、漸く。
旅立ちの時、父王に与えられた、『如何なる惨状を目にしようとも、挫けることは許さぬ』との言葉が、アレンの身に沁みた。
街道を往った分だけ、王都に近付いた分だけ、異臭はきつくなった。
山を下りた頃には普通に目に出来ていた草木も、徐々に数を減らした。
「……アーサーは、ムーンブルクを訪れたことは……?」
「…………ありません。噂に聞いているだけです。一年の半分以上が春で、とても過ごし易くて、通年、花と緑の絶えない都だ、と。……そういう評判でしたね…………」
「僕も、そう聞いてる。優雅としか言い様のない都だとも。……なのに何で。どうして、ムーンブルクが……。邪神教団は、何故ムーンブルクを狙ったんだろう……」
そうやって、徐々に変わっていく辺りの様子や景色の所為で、二人の口は重かったが、沈黙に耐え切れなくなったのか、ぽつぽつ、アレンは話し始める。
「そう言えば。亡くなったムーンブルク兵士が受けた勅命の一つは、邪神教団の大神官ハーゴンは、禍々しい神を呼び出し世界を破滅させるつもりだ、とローレシア王にお伝えすることだったそうですね」
「……ああ。その場に居合わせたから、僕は直接その報せを聞いた」
「僕、その話を聞いた時から、不思議に思ってたことがあるんです」
「何を?」
「邪神教団の望みであり目指す所は、世界の破滅。……そこはいいんです。でも、何故、それをムーンブルク王はご存知だったのか。そして何故、真っ先に狙われたのがムーンブルクだったのか。それが不思議なんです」
「…………言われてみれば、確かに。でも、その答えに繋がる手掛かり一つ、僕達は持っていない」
「ですね。想像なら幾らでも出来ますし、仮説も何通りかは立てられますが。謎だらけですもんね」
「そういう意味でも、ムーンブルクへ行ってみるしかない。邪神教団のことも、ハーゴンとやらのことも気になるけれど、ローザ姫の無事を確かめるのが、今の僕達の一番の目的だから」
独り言めいたアレンの言葉に耳傾けていたアーサーは、頭の片隅に放り出しておいたことを思い出しつつ腕組みして唸り。流し目で彼の様子を眺めながら、考えても仕方無い、自分達に出来るのは、前へと進むことだけだ、とアレンは再度、自分に言い聞かせた。