─ World Tree〜Beranoor ─
外洋船を降り、手漕ぎの小舟でも行くのは難しい浅瀬を迂回して向かった島に足を着けた途端、アレンもローザも、思わず動きを止めた。
島は、渓谷らしい僅かに拓けている谷間以外の全てを、草木も生えない高く険しい山々に縁取られていて、その灰色した山脈と、所々が下草に覆われた薄茶色の地面の他には、たった一本の大樹以外何も見当たらなかった。
が、人間の想像を遥かに超えた、凄まじいとか、いっそ恐ろしいとしか言えぬ大きさをしている大樹の枝葉が島をすっぽり覆っている為、辺りは夜と見紛うばかりに暗く、鬱蒼、との印象を二人に与えてきて────でも。
その暗さも、或る意味では異様とも言えるその島の景観も失念させる荘厳さや神秘さに、島の全てが満たされていた。
だから二人は足を留め、長らく、天界──アレンもローザも、天界など実際には知らないが──にも似た島の空気に、身を浸す風にした。
「世界樹……だな」
「ええ。こんな気配が生めるのは、神木以外にないわ」
だが、何時までもこの風に身を任せている訳にもいかないと、期待に胸膨らませながら歩みを再開した二人は、島の深部を目指し始める。
────小島の中央部に息衝いている大樹の根元へ向かう内に、二人は、この神秘の島の、神秘でありながら──否、神秘であるからこその異様さを、目の当たりにすることになった。
小島一つを覆い尽くして余りある枝々を持つ広葉樹がそこにあるのに、木々が色を変えた葉を落とす季節なのに、地面には、一本の枯れ枝も、一枚の落ち葉もなかった。
奥に進むに連れ、鳥や小動物や虫達の姿が見掛けられるようになったから、『島』が確かに生きているのは判ったけれども、まるで、時が止まってしまっている如くな錯覚にアレンとローザは陥り、知らず知らず、ローザはアレンへ身を寄せ、アレンは彼女を庇うように肩を抱く。
「少し……怖い所ね……」
「……ああ」
「私達のこの世界をお創りになられたのは、精霊ルビス様なのだから、世界樹も、ルビス様がお創りになられた物なのに。何で、怖いなんて感じるのかしら」
「…………ルビス神が生んだものだから。──なんじゃないかな」
「え?」
「この大樹も、神や精霊に連なるものだから。神の世界のものだから。……神や精霊は、人とは掛け離れた遠い遠いモノで──それこそ、僕達には手の届かない夢のように遠いモノで、だから、怖いと感じることもあるんだと、僕は思う」
「畏怖……ってこと?」
「多分。……本当のことは判らないし、こんなこと、神や精霊を愛しているアーサに言ったら、叱られるかも知れないけれど。…………少なくとも、この大樹は、僕達の世界のモノからは遠過ぎる」
「…………アレン……」
「……すまない。変なことを言ったみたいだ。────さあ、葉を探そう」
漸く辿り着いた大樹の根元──太い太い幹と、真上を見上げても酷く遠くにしか見えない緑の葉のみが窺えるそこに立ち尽くして、怖い、と洩らしたローザの肩を抱きながら、アレンはその時、そんなことを告げた。
世界樹も、神も、精霊も、『夢のように遠い』、と。
……彼のその想いは、決して、深く考えてのものではなく、只の感想でしかなかったが、何故か、胸を突かれたような気になったらしいローザは眉を顰め、アレンは、余計に怖がらせてしまったかも知れない、と彼女へ詫びつつ辺りに目を走らせた。
何処にも、本当に葉の一枚も落ちていなかったら、到底登れるとは思えぬこの大樹を何とかして登り、葉を得なくてはならないが……、と悩みながら。
──────……と。
刹那、何処からともなく、ふわりとした風が舞い込み、大樹──世界樹の枝々を揺らした。
微かに鳴る程度だけ、細やかな風に揺られた世界樹の枝は直ぐにざわめきを収め、次いで、ひら……と、瑞々しい葉を一枚だけ、二人の足許に落とした。
「アレン、葉が」
「ああ。…………ロト伝説にもあったな。空の彼方の異世界より、この世界へ降り立つ前、霊薬である世界樹の葉を求めに行った勇者ロトの目の前に、世界樹が、自らの葉を一枚だけ落として与えて……、って逸話が」
「あ、そう言えば、そうだったわね。なら、世界樹は、勇者ロトにそうしたように、私達にも、自身の葉を分け与えてくれたことになるわね」
「そう願いたい。……ベラヌールに戻ろう、ローザ。アーサーが待ってる」
「ええ!」
あたかも、神が与えてくれた賜り物の如く、己達の足許に舞い落ちた葉をアレンは跪いて拾い上げ、ローザが手渡してくれた真っ白いハンカチーフで丁寧に包むと、そうっとそうっと、間違っても潰してしまわぬように、腰の鞄に仕舞って。
青空が覗く渓谷まで取って返し、携えてきた革袋の中から取り出したキメラの翼を、空高く放り投げた。
宙に舞ったキメラの翼は、契約印に導かれ、瞬く間にアレンとローザをベラヌールの街へ戻した。
西の空が薄らと茜色に染まり始めて来た時刻、ベラヌールの市門前に降り立った彼と彼女は、はあ……、と一つ大きく息を吐き、帰還術が与えてくる緊張を解いてから、街の中へと駆け出す。
何方からともなく腕を差し出して、手と手を繋いで、悲壮と覚悟が綯い交ぜになった気持ちを抱えながらこの街を発った日と同じく、神職者や旅人達で賑わっている通りの混雑を縫うように抜けて、街の南側に犇めく商店街の一番西に位置する、アーサーの待つ宿屋に二人は飛び込んだ。
「お客さ──」
「──ご主人!」
「へっ!? な、何か……?」
「アーサーは!? 僕達の連れの! こちらで預かって貰っている彼だ!」
「……あ、ああ、あの方なら、先日の部屋で、あのまま──」
「──判った、有り難う! 騒がしくした詫びは又後で!」
けたたましく入り口を潜った二人へ、帳場の台の向こう側にいた宿の主が何かを言い掛けたが、アレンは張り上げた声で彼を遮り、慄いた風に身を引いた主へ勢い込んで叫んで、少しばかり顔を引き攣らせながらも答えてくれた彼からアーサーの容態に変わりないのを聞き出すと、ローザの手を引いたまま、駆ける足も留めず廊下を走り抜き、今度は、あの客室に飛び込む。
「アーサー!」
「アーサー! 今、戻ったわ!」
「おお! お帰りなさいませ、アレン様、ローザ様」
焦るばかりの心身共に辛い船旅をした直後、駆けられるだけ駆け続けたから、アレンの息もローザの息も上がっていたけれど、ずっと付添役を果たしてくれていたらしいローレシア兵に酷く簡素な会釈を送った二人は、アーサーの枕元に張り付いた。
「……お帰りなさい、アレン。ローザ……」
「見付けたんだ! 世界樹の島を見付けて、世界樹の葉を手に入れて来たからっっ」
「もう少しだけ待っていてね、アーサー」
閉じていた瞼を億劫そうに持ち上げ、力無くも笑んで見せた彼へアレンもローザも大声で語り掛け、本来ならば一つも正しくない、乱暴以前のやり方だと思いながらもアレンは、腰の革鞄から手付きだけは慎重に取り出した世界樹の葉を小さく丸め、有無を言わさず強引に抉じ開けたアーサーの口の中に押し込み、ローザは、枕辺に置かれていたグラスの水を、同じく、抉じ開けられたままの彼の口へ流し込む。
「え…………。それは、一寸……」
手も口も挟む間すら与えられず、黙って、二人の処置とも言えぬ処置を見守るしかなかった傍らのローレシア兵は、流石に、「幾ら何でも……」と王子殿下と王女殿下に物申そうしたが。
「…………あ、の……。えっと、有り難うございます、アレン、ローザ。でも……、もう一寸だけ、何とかなりませんでした……?」
突っ込まれた『葉っぱ』と水を、目を白黒させつつ何とか彼んとか飲み込んだアーサーは、紙よりも白くなってしまっていた頬に、見る間に赤味を取り戻した。
小声でボソッと、一寸した苦情を零す元気すら。