「ローザ。部屋に戻ろう」

だが、アレンは。

無意識の内にローザの肩を抱こうとしていた己の腕に気付くや否や、慌てて引っ込めた。

何故だか、いけないことのような気がした。

己は、冷たい夜風に震えた彼女を少しでも暖めてやる為に、腕を伸ばしただけなのかも知れないのに……、と思いつつも。

その思いとは裏腹に、彼は罪悪感に駆られた。

「アレン? どうしたの、何か慌ててるみたいだけれど」

「いや、何でもないんだ。何と言えばいいか……」

そんなアレンの焦りを感じ取ったのか、ローザは彼へと向き直って、不思議そうに顔を上向ける。

「本当に、急にどうしてしまったの?」

「だから…………」

故に、それまで以上に彼と彼女の距離は縮まり、たおやかで、細くて、白くて……、と改めて感じ入った彼女の肩や肌は、益々アレンの目に焼き付いて、

「……アレン? アレ────

目を逸らし、ローザのふっくらとした唇のみを見詰めたアレンは、何を源としているのか彼自身にも能く判らない衝動に駆られ、今度は両腕を伸ばして彼女を抱き締めた。

己の手の中にあった少々無骨なカップも、彼女の手の中にあった揃いのカップも、共に指先から零れ落ち、甲板の床板に当たって砕け散ったが、夜陰に響いた耳障りな破壊音は、彼の耳には届かなかった。

「ローザ……」

仲間として、親愛の証として、彼女を抱き締めたことは幾度もあるのに、そんなこと疾っくに判っていたのに、腕にした彼女の体は、力を込めた途端に儚く折れてしまいそうだ、と思わされたまでに華奢で、しかしアレンは、彼女を抱く腕の力を強くする。

そうすれば、驚きに目を見開いていたローザは、すっと瞼を閉ざし、彼の胸に頬を寄せつつ、身を預けてきた。

「ローザ。ローザ…………」

華奢な体に回されたアレンの左腕は、薄い背に深く絡み、持ち上げられた右腕の手指は、菫色した長い髪に絡み、頬は、彼女の額に。

海風に晒された、こんな旅の日々では手入れも思うようにいかぬのだろう髪は何処となく軋んでいて、船上故に湯浴みもままならぬ肌は少しだけ潮の匂いを纏っていたが、それでも、ローザの身からは薔薇の香りが立ち上り、アレンは、深く息を吸い込む。

「…………アレン」

「…………あ。……す、すまない。その……っ!」

────彼には甚く長く感じられた、けれど実際は僅かの間だったのだろう抱擁の最中さなか、されるがままでいたローザが己が名を呼ぶ声で、はっと我を取り戻したアレンは、腕を解いて咄嗟に後退った。

「いいの。気にしないで。お願い」

「すまない、本当に……。……あの、な。ローザ……──

──アレン。寝ましょう?」

「……そ、そうだな…………」

脅かされた猫のようにバッと飛び退き、有らぬ方を向いて酷くばつ悪そうに眼差しを彷徨わせるアレンを落ち着かせようとしたのか、ローザはくすりと笑って彼の言い訳を遮り、眼差し同様、遣り場無く彷徨う彼の手を取って甲板を進み、船室へ続く階段を下り始める。

「ねえ、アレン」

「な、何だ?」

「何時もみたいに、一緒に寝ない?」

「はっ!? え、ローザ!?」

「だって、その方が良く眠れる気がするんですもの。本当に、癖になるのよ、貴方の腕枕。アーサーに知られたら、狡いって言われるでしょうけど」

「あ、ああ……。そうだな、そういうことなら、うん……」

そうして、あんなことがあった直後なのに、ローザは船室へ向けた足も留めず、何時もみたいに眠ろう、と言い出し、声裏返させながらもアレンは、彼女が良く眠れると言うなら……、とぎこちなく頷いた。

だから。

ベラヌールの街を訪れるまではアーサーと二人毎晩していたように、ローザは船内でのアレンの自室に踏み入って、さっさと寝台に潜り込み、アレンも恐る恐る横になって、アーサーはいないけれど、『習慣』通りに二人は眠りに付いた。

アレンが枕として片腕を提供した途端、ローザは直ぐに寝息を立て始めたが、彼は、それより暫くも起きていた。

……眠れなかった。

水の都を発ってよりそれまでの日々とは全く違う意味で。

もしかして、自分はローザを想っているのだろうか……、と考え込んでしまったから。

…………いや、もしかして、ではなく、きっと自分は、ローザに想いを寄せている。……とも気付いてしまったから。

でも、アレンは。

ローザの気持ちは判らないけれど。

ローザに想いを寄せてしまった己を、アーサーがどう思うのかも判らないけれど。

この想いは、多分、そっと己のみの胸の内に収めた方がいいのだろう……、と決めた。

少なくとも、その夜は。

『快適な枕』のお陰で、あれ以降はぐっすり眠れたらしいローザと、思い煩うことに疲れて眠ったアレンの二人は、迎えた翌日は幾分かすっきりした顔をしていた。

心情は、まあ……、と言う奴だったが、少なくとも体の疲れは多少なりとも取れた彼等に倣ったように、その日は、海の模様も昨日までとは一変して穏やかで、外洋船は、予想以上の速度で、予想以上の距離を進んだ。

その又翌日も、海は穏やかで。帆に受ける風も良く。

「おーーーい! あれじゃないか? 見えてきたぞ!」

船長室で、船長を交えて三人で、広げた世界地図と睨めっこをしていたアレンとローザの許に、ベラヌール出航より八日目の午前、水夫の一人が駆け込んで来た。

早く早く! と急かす水夫に背を押され、向かった船の帆先に立った二人の目に映ったのは、波間の向こうに霞む、けれど、確かに天を突く巨大な広葉樹が聳え立つ、小さな島だった。

世界地図でも確かめてみたその島は、ロンダルキア大陸の東端から、ほんの数海里程、真東に進んだ所に広がる浅瀬の向こう側に位置しているようだった。

どれだけ見上げても、どんなに目を凝らしても、大樹の尖端を窺うことは出来なかったばかりか、太い幹が雲をも貫いているのが判り、きっと、あれが伝説の世界樹だ……、とアレンとローザは頷き合う。

それは、確信の頷きではなく、そうあって欲しいと言う願望故の頷き合いだったけれど、世界樹の葉を手に入れアーサーの呪いを……、との、一度ひとたび乗った賭けに最後まで乗り続けてみるしかないと、二人は下船の準備を始めた。

「おい……。アレン坊。ローザ嬢ちゃん。二人だけで乗り込んで大丈夫なのか……? そりゃ、俺達だって、あれが世界樹であってくれたら、たぁ思うが…………」

が、急く風に支度の為の手を動かす彼等を手伝いつつも、船長や水夫達は、不安そうな顔を拵える。

「船長。何か気になることでも?」

「気になって当たり前だろ。あんなんを見たのは、俺達だって初めてなんだぞ。年中通ってる海域だってのに、あんな島も、あんなデッカい樹も、俺達の誰も、今までこの目にしたこたなかったんだぞ? そりゃ、料理番のあいつが噂に聞いちゃいたけどよ。それだって……。これだけ手練の水夫が乗ってる船で、その噂を知ってたのは、たった一人だったんだぜ?」

「心配してくれて有り難う、船長。でも、大丈夫だ。葉を手に入れてくるだけなんだから。縦しんば邪悪な何かだったとしても、深入りするつもりはない。今、僕達が探しているのは、本物の世界樹なのだから」

「…………そうか? なら、止めねえけどよ……」

「ああ。──世界樹の葉を手に入れたら、僕達はキメラの翼でベラヌールに戻る。だから、打ち合わせた通り、夕方になっても僕達が戻らなかったら、船長達はザハンに向かってくれ」

「判ってる。……気ぃ付けて行って来いや」

「有り難う。気を付けるよ」

「では、船長。ザハンで」

しかし、アレンは船乗り達の不安を笑みで払って、ローザと二人、一本の大樹が生い茂る島に最大近付いた船より、上陸船へと乗り移った。