故国ローレシアの王城より、アレンが、ムーンブルク王都へ向かうべく一人飛び出したあの日から数えて、そろそろ二年になる。

旅の空の下で過ごす毎日を二年近くも続けたお陰で、彼もアーサーも、何時しかそれなりには──それなりでしかない、とも言えるが──料理が出来るようになったし、ローザに至っては、大抵の家庭料理が拵えられる腕前になった。

故に、ロンダルキアの祠に到着したその日の午後遅く、順番に湯浴みを終えた三人は調理場に乗り込み、あれが食べたいとか、これが食べたいとか、好き勝手に言い合いながら夕餉の支度に挑み、正直見た目は今一つ以下だが、味の方は中々と言える品々を拵えて、数日振りの、暖かい、人らしい食事を摂り、もう一度湯に浸かって暖まってから休むことにした。

最初から暖炉の火が熾されていた客室には二台の寝台があったけれども、火の傍で眠りたかったので、『即席巨大寝台』は作らず、柔らかくふかふかした毛皮の敷物の上に寝床を拵え、三人は、『何時も通り』に横になる。

部屋の灯りを落として直ぐ、アーサーは深い眠りに落ち、アレンも、瞼を閉ざし掛けたが。

「……アレン。一寸いいかしら」

ローザは、トントン、とアレンの胸辺りを軽く叩いて、小声で彼に耳打ちした。

「…………ん? どうした、ローザ」

「貴方も疲れているのに、御免なさい。話があるの。だから、一緒に来てくれないかしら」

「……? ああ、判った」

唐突に、しかも改まって、話が、と彼女に告げられ、何事かと訝しんだものの、闇の中でアレンは頷き、今日も今日とて己の片腕を枕にして眠るアーサーからそっと腕を奪い返して、一足先に寝床を抜け出したローザの後に続いた。

暖炉近くに置いておいた燭台に火を灯し直し、それを手に部屋を出たローザは、廊下を伝い、突き当たりの階段を昇り始める。

「ローザ? どうしたんだ。話って?」

「…………アーサーのことなの」

アーサーを一人残して部屋を出ただけでなく、地階にまで足を運んだ彼女の念の入れ方に一層訝しんだアレンに、ローザは、微かに眉を顰めた。

「アーサーのこと? 彼が、何か?」

「ええ……。…………あの。昨日、彼が、私を助ける為にザオリクを使ったでしょう?」

「……ああ。────あ、そうだ。御免、言い損ねてしまっていた。……あの時は、すまなかった。僕の所為で、君をあんな目に遭わせてしまった……。…………御免。それと、有り難う」

「…………私こそ、あの時は御免なさい。あんな風な庇い方をして、却って、貴方やアーサーに心配を掛けてしまって……」

「いや。君が詫びる必要なんか無い。…………でも。もう、あんな真似はしないで欲しい。勝手な言い草だと判っているけれど、僕は……」

「……本当に、その言い草は勝手よ、アレン。貴方は何時だって、アーサーや私を身を呈して庇うくせに。…………でも、そうね。出来るだけ堪えるようにするわ。もう、貴方達に、あんな顔をさせたくないもの」

地下の、かつては客室として使われていた部屋とは違い、祭壇の間は甚く冷えていて、昼夜を問わず灯され続けている様子の、祭壇脇の篝火の傍に寄り、並んで腰下ろしたアレンとローザは、互い、何処となくばつ悪そうに、目を合わせぬまま、そんなことから話し始め、

「………………うん。…………それで? ザオリクがどうしたって?」

「あ、そうだったわ。──アレン。貴方、ザオリクのことを、何処まで知っていて?」

ちらりと、一瞬だけ見詰め合った二人は、ぎこちなく話を元に戻した。

「余り能くは知らない。昨日、アーサーに、ザオリクは死に瀕した者の魂を肉体に繋ぎ止める呪文だと教えられるまで、所謂蘇生呪文だと思っていたくらいだから」

「ああ、やっぱり。……そうなの。ザオリクは、死者を生き返らせる為の呪文だと思っている人達の方が多いのだけれど、亡くなってしまった者を甦らせることまでは出来ないの。本来なら為す術無く見送るしかない者の魂を、術者の魔力と術で以て肉体に繋ぎ止めることで死から救う技だから、蘇生呪文のように見えるだけで、息絶える寸前の者は救えても、息絶えてしまった者は救えないのね」

「……成程な。そういう術だから、魔術や魔力に縁の無い者達には誤解されがちで、その誤解が、一般に伝わってしまっているのか」

「ええ。でも、ザオリクが、魔術師や聖職者以外には誤解されがちなのは、そういう術だから、と言うだけが理由ではなくて、使役する者が少ない所為でもあるの。イオナズンと同じで、精霊達と結ぶ契約の難しさや複雑さ故に、と言うのもその理由の一つだけれど、ザオリクを扱う術者が数少ない一番の理由は、必ず守らなくてはならない決まり事があるからなのよ」

「決まり事? どんな?」

「…………見方を変えてしまえば、今正に天に召されようとしている者を、魔術で以て死の淵より救い出す行いは、命の理に逆らっている、とも言えるわ。だから、精霊達とザオリクの契約を交わす際には、同時に、メガンテ──術者自らの命と引き換えに、恐ろしいとしか言えない力を生む術の契約も、交わさなくてはならない決まりになっているの。……こんな風に言うと、酷く忌まわしく聞こえるでしょうけれど、要は、術者に自戒させる為に生まれた決まり事なのね。ザオリクの習得を志す者達の大半は、人々の命を救いたいと願う聖職者達だから。人々を救うことだけにのめり込みがちな術者が、領分を踏み外さぬように生まれた自戒。生や死に関わることは、神のみに委ねられた、あるがまま受け入れるべきもので、人々を救う為とは言え、命の理を曲げてまでそれを成すのは本当に正しいか否か、能く考え直せ、と言う意味の」

「ああ、そういう意味での自戒で、その為の決まり事か。成程……」

そうして、ローザが語り出した話は、ザオリクやメガンテと言う術に関する話で、「まあ、判らなくはないかな……」と、アレンは小さく頷いたが。

「アレン。貴方、今一つピンと来ていないでしょう?」

どうにも、魔力や魔法に絡むことには疎い彼を、ローザは、チラ……、と横目で見据える。

「いや? 君が教えてくれた話自体は理解出来てる」

「そうではなくて。どうして、メガンテが、ザオリクを使役する者にとっての自戒に成り得るのか、判っていて? と訊いているの。……要するにね。ザオリクの契約を交わす際にはメガンテをも、と言う決まり事は、暗に、命の理を曲げてまで誰かを救おうとするより先に、自らの命を犠牲にすることで人々を救え、と術者に求めているに等しいの。…………勿論、必ずそうしなくてはならない訳ではないわ。自戒は、何処までも自戒でしかない。でも、単なる自戒を実行に移してしまう術者は少なくないの。さっきも言ったけれど、ザオリクを操る術者の大半は、自己犠牲精神が強い聖職者達だから」

「………………自らの命を犠牲にすることで人々を救う、自己犠牲精神が強い、聖職者……」

「……ええ。────アーサーは、自分にとっての『特別』以外を、二の次に扱いがちな処があるでしょう。『特別』の為には、自分の命すら二の次にしてしまい兼ねない処だって。しかも彼は、精霊達とザオリクの契約を交わし終えたことを、私達に黙っていたわ。機会が無くて言い損ねた、祠に着いて落ち着いたら話すつもりだった、なんて言っていたけれど、あんなことがなければ、隠し通すつもりだったんじゃないかしら。だから……、メガンテも使役出来るようになってしまった彼は、万が一何かが起こった時には、自分を犠牲にする覚悟でいるのではないかしら、と思えてきて……。私、怖くて…………」

「有り得ない、とは……言えないな…………」

そのままローザは話を続け、やっと、彼女の言わんとしていたことが飲み込めたアレンは、顔を曇らせた。

「でしょう? …………ねえ、アレン。どうしたらいいかしら……」

「……僕達の前で実際にザオリクを使った以上、メガンテのことも君には悟られたと、アーサーも判っているだろうから。早々、馬鹿な真似はしないと思いたいんだが……」

「だといいのだけれど…………。私には悟られても、貴方には悟られていないから、とか考えたりしないかしら。何となく、アーサーは、私がこのことを貴方に教えると思っていないような気がするのよ。そう感じたから、実はその……、さっき、貴方が部屋の灯りを落としていた時に、こっそり彼にラリホーを掛けて、貴方を連れ出したの」

「道理で。アーサーは、やけに早く、しかもぐっすり眠ったな、と思っていたんだ。──……なあ、ローザ。本当に、アーサーが、いざと言う時にはそうするのだと決めてしまっているのだとしたら、僕達にしてみれば馬鹿な覚悟としか思えないそれでも、思い留まらせるのは難しいと思う。君も彼も、能く、僕は秘かに頑固だと言うけれど、僕に言わせれば、彼だって、さり気なく頑固だ。だから、君や僕に──いや、僕達三人に出来るのは、アーサーが馬鹿な真似をしてしまい兼ねない『いざと言う時』を避けるようにすることだとも思うんだ。…………だから。ローザ、一寸、手を貸してくれないか」

ローザも又、それまで以上に深刻そうになり、どうしたら……、とアレンを振り仰ぎ、見詰められた彼は、少しばかり悩んでから、思い定めたように彼女に協力を頼み出した。