未だ春も浅い季節の、朝早い時刻のこと、冷えた空気に包まれる中庭には、アレン以外の誰も見当たらなかった。

ローレシア王都では未だ未だ寒い朝と言えるが、二月前まで極寒のロンダルキアにいた彼には暖かいと思える程で、のんびりと庭の草花を愛でて歩いた彼は、ふと目に付いた温室に立ち寄る。

これまで、四季折々の花咲き乱れる温室に、彼が興味を示したことは殆ど無かったけれども、何となく思い立って入ってみたそこでは、薔薇の花が咲いていた。

早春に善く見掛ける、淡い、が、はっきりした色目にも見える、桃色の花弁の薔薇。

……そう言えば、かつてのムーンブルク王城の中庭には、ローザの父王が彼女の名に因んで造らせた薔薇園があった、とローザは言っていたっけ、とか。

どうしてか、ローザからは何時も、薔薇の花の薫りがする、とか。

つらつらと思いつつ、アレンは薔薇を眺めようと立ち止まり、

「おや、アレン殿下。おはようございます。今朝はお疲れなのではありませんか?」

そこへ、園丁がやって来た。

「ああ、おはよう。朝から精が出るな」

「いえいえ、それが私の仕事ですので。……殿下。この度は、本当におめでとうございました。そして、ご無事で何よりです」

「……有り難う」

その園丁も、アレンが生まれる以前から城に務めている者の一人で、甚く嬉しそうに祝いを告げてくれた彼に、アレンははにかむ。

「あ、そうだ。あの……」

「はい。何でございましょう、殿下」

「この薔薇……、切っても構わないか?」

「ええ、幾らでも。お切り致しましょう」

「いや、いいんだ。自分でしたいから。それと……、すまないが、刺の取り方、教えて貰えないかな」

「おやおや……、殿下」

「え? 何かしたか?」

「……あー……、何でも。──では、殿下、この花鋏をお使い下さい。それで……────

そんなやり取りの最中、そうだ、と思い付いたアレンは、園丁に薔薇が欲しいと告げて、とてもとても物言いた気な顔になった彼に教えられながら、花束に出来るまで薄桃色の薔薇を切って歩いて、一つ一つ丁寧に刺も取って、「きっと殿下は、『あの方』に花束を贈られるおつもりなのだろう」と見抜いた園丁が、何処かから調達してきたリボンで束ねた花束を手に温室を出た。

城内へ戻ろうと中庭を辿っていた彼は、今度はローザに行き会った。

彼女も又、朝の散歩をしていたようで、あちらの樹を愛で、こちらの花を愛で、としていた彼女と目が合ってしまったアレンは、拙い、と右手の花束を背に隠したが、一足遅く。

「あら、アレン。おはよう。……まあ。どうしたの、その薔薇の花束」

「おはよう、ローザ。その……」

う……、と思った時には、案の定、貴方が花束なんて、とローザに突っ込まれてしまった。

「アレン? ……あ、判った。何方かへの贈り物ね? そうなんでしょう」

「それは、その。贈り物、ではあるんだが、あの……。……その、ローザ。良かったら、受け取ってくれないか」

「え…………。私に……?」

「……ああ。君に、と思って…………」

剰え、何処の何方へ贈るの? などと、他ならぬ彼女にからかわれてしまい、ままよ、とアレンは、隠し損ねた花束を、そろりとローザへ差し出す。

「あの…………。……アレン? どうして、と訊いても良くて……?」

「うん……。────ローザ。その、実は、あの……っ。……君が好きなんだ。ずっと、好きだったんだ。だから……」

眼前を占めた薄桃の花束をローザは受け取ってはくれて、嬉しそうに抱き締めてもくれたけれど、何故、と意味を問うてきて、覚悟を決めた彼は、想いを打ち明けた。

────本当は、何処かに花束を隠しておいて、頃合いを見計らって告白をしたかった。

アレンとて、一人の男としての挟持があるから、格好は付けたかった。

数多の女性が夢見るような、王道の、さも、お伽噺の中で描かれるみたいに出来たら、と思っていた。

こんな、城内の人々が一日を送り始める忙しない朝の一時ひとときに、それなりの支度ではあるが軽装に近い姿で、用意したばかりの花束のみを贈り物に、行き当たりばったりの告白などしたくなかった。

ローザは、客人としての立場がある故に、それなり以上の支度でいるのに。

自分に叶うか否かは兎も角、気の利いた、女性を魅了する言葉を告げたい、とも考えていた。

けれど、現実は理想から程遠く、ローザを幻滅させてしまったら、とアレンは、恐る恐る、彼女の顔色を窺う。

「アレン…………。どうして……。どうして、そんなことを言うの……。言ってしまうの……」

……好きだ、と告げ、ローザの瞳や頬に浮かぶ色を彼が探っている内に、彼女は、贈られた花束を抱き締めて、いきなり、泣き出してしまった。

「ご、御免、ローザ。すまない……。君を、困らせることを言ったみたいだ…………」

だから、ああ、やっぱりな……、と。

夕べ、アーサーに焚き付けられたのもあって、こんなことをしてしまったけれど、やはり、言わなければ良かった……、と。

彼は、足許の芝生に目線を落とす。

「……そうよ。困るわ。困ってしまうわ……。……私だって。私だって、ずっと貴方が好きだった。……貴方が好き。好きなの……。でも……、でも。後数日が経ったら、私はムーンブルクに戻る。ムーンブルクに戻って、即位して、王都を再建しなくてはならない。そして貴方は、ローレシアの王に……」

「ローザ?」

「諦めようと思っていたのに……。諦めると決めたのに……。どんなに貴方を想っても、貴方と私が結ばれて良い筈無いから、貴方への想いは私の胸の内だけに仕舞って、私だけの宝物にしよう、って。ずっと、大事に取っておこう、って。そう決めていたのに……っ! どうして、今になって! アレンの馬鹿!」

しかし、彼女が泣き出してしまった理由は、アレンの想像とは違った。

好きだから。けれど、諦めなくてはいけないと判っていたから。この想いは、生涯の宝物にして仕舞ってしまおうとも決めていたから。

なのに、別れの時が目前に迫った今になって、諦めた人より愛を告げられたら、泣くより他、どうしていいか判らない、と彼女は。

「私が、何度! 何度、貴方に好きだと打ち明けようとしたか、知っていてっ!? その度に、堪えてきたのに……っ」

「…………すまなかった、ローザ。でも……、好きなんだ、ローザ。僕の気持ちを、君に知って欲しいと思ってしまったんだ」

「っっ……。アレンの、馬鹿……っ」

そうして彼女は益々泣き濡れ、彼は、花束毎、彼女を抱き締める。

「アレン……。アレン……っ」

「ローザ……。好きだ」

「…………嬉しいわ。嬉しいけど……っ。諦め、なきゃ……っ」

「……そう、かも……知れない、な……」

綺麗に整えられた、午前も未だ浅い中庭の片隅で、アレンとローザは互いの想いを確かめつつ抱き締め合って……、けれども、何としてでも、この想いは過去に変えてしまわなければ、と告げ合ったが。

アレンがローザの背に廻した、ローザがアレンの背に廻した、それぞれの両腕は解かれず。

「……私、きっと。これだけで満足出来るわ。この思い出だけで、一生、幸せに過ごせる気がするの……」

「ローザ……。……ローザ。せめて────

ローザはアレンの胸に伏せていた面を、アレンはローザの髪に伏せていた面を、同時に持ち上げ瞬きもせずに見詰め合い、二人が、一度だけでも……、と微かに震える唇を近付けようとした時。

──二人共、そういう処だけは、やたらと諦めが早いですねぇ」

ガサリと直ぐそこの茂みが鳴って、ヌッとアーサーが姿を現した。