「……アレン?」

「………………あ……。…………っっ」

「アレン…………?」

立ち止まった彼を、どうしたの? とローザが振り返った時には、アレンは服の胸許辺りを強く握り締めつつ苦悶の表情を浮かべており、

「アレン! アレンっっ!!」

「……ローザ……。ローザ……っっ……」

咄嗟に腕を差し伸べた彼女の名を呼びながら、彼はその場に頽れる。

「父上!!」

「陛下! ──誰か! 誰か侍医を!」

「父上、しっかりして下さい、父上!」

「お父様、嫌ぁぁっ!」

床に倒れ臥し、右手で胸を押さえ、左手の爪先で厚い絨毯を掻き、小さな呻きだけを洩らして苦しむアレンを、子供達や宰相も取り囲んだ。

「お父様! お父様っっ!」

「アベル! アデル! 早く兵を! 寝所にお連れしないと!」

「あ……。あ、はい!」

「今直ぐ!」

未だ十三のロレーヌは、倒れた父に縋り付いて泣き出してしまい、アベルもアデルも、言葉も無くアレンの傍らに膝付いてしまったが、床に付いた両膝に彼のこうべを乗せたローザは、息子達を叱り飛ばす風にし、兵を呼びにやらせた。

執務室で倒れた直後にローザの名を呼んで以降、アレンは気を失ってしまい、数刻が経っても目覚めなかった。

駆け付けた兵達が彼を運び込んだ寝所には幾人もの侍医が詰め、ローザと子供達は続きの間にて、アレンが目覚めてくれるのを、ひたすら待ち続けた。

「ローザ! アレンが倒れたって本当ですかっ!?」

「アーサー! ……ああ、アーサー……。アレンが、アレンが…………」

日没を迎えて少々が過ぎた頃、誰もが息詰めながら祈りを捧げていたアレンの自室に、その日、夕餉を共にする約束をしていたアーサーも駆け付けて来て、バッと長椅子から立ち上がったローザは、親友に縋る風になる。

「大丈夫です。アレンなら、きっと大丈夫ですから、ローザ……」

泣き出す寸前の顔になった彼女に添ったアーサーは、こんな時こそ周りがしっかりしないと、とローザを宥めて長椅子に座り直させ、その時、彼女が握り締めていた物が、床の上に落ちた。

「鏡が……」

「ローザ? ……ああ、あれですか……」

それは、アレンが肌身離さず持ち歩いている、ラーの鏡から作った小さな手鏡だった。

件の手鏡が、今、ローザの手にあったのは、倒れたアレンを夜着に着替えさせた侍従の一人が、陛下が大切にされているお品だから、と手渡してきたからで、彼女が拾い上げたそれを、ああ……、とアーサーは見詰める。

「……アレンは、何が遭ってもそれを手放しませんよね……」

「ええ……。未だに、枕の下に入れて眠ることも能くあるわ。アレンにとっては宝物なのでしょうね……」

「あ、の……。……お母様。アーサー様。その手鏡……、何か特別な物なの……?」

布に包まれたままの小さな手鏡をローザも見詰め、二人が揃って『遠い声』を出せば、怖ず怖ずと、ロレーヌが尋ねてきた。

アレンとローザの子供達は、誰も、その手鏡に付いて、父が大切にしていること以上を知らなかった。

「特別……。……そうね。特別よ。私達にとっては。お父様には特に。──ロレーヌも、アベルもアデルも。ラーの鏡を知っているでしょう?」

「ええ。ロト伝説にも出て来ますから。その、ラーの鏡なのですか?」

「母上に掛けられた呪いを解いてくれた鏡だって話も、聞いたことが……。……だよな? 兄上」

「うん。僕も、その話は聞いたことがある」

「そうよ。この手鏡は、ラーの鏡の破片を使って、お父様が作らせた物なの。……貴方達には信じられないことかも知れないけれど……、この手鏡はね、私達の御先祖様──勇者ロトと、勇者アレフの在りし日の姿を、垣間見せてくれるものでもあるの。だから、お父様は……アレンは……、本当に本当に、この手鏡を大切にしていて…………」

アベルもアデルも、母の手の中の小さな鏡を覗き込み出し、ローザは低くか細い声で、手鏡の正体を、初めて子供達に明かす。

「御先祖様達が…………」

「……そう。今まで、貴方達も黙っていたけれど。貴方達のお父様は、二つの伝説が語る二人の勇者との語らいが叶えられる人。……アレンだけが出来ること。私にも、アーサーにも出来ない……」

「ローザ。今は、その話は…………」

打ち明けられた話に、子供達は一様に目を見開き、どうしてか、ローザの声は益々沈んで、顔曇らせた彼女の語りを、アーサーが留めようとした時。

「ローザ王妃殿下……」

寝所の扉がそっと開いて、詰めていた侍医長が出て来た。

「アレンは!? アレンはどうなのですか!?」

そうと気付いた途端、ローザは侍医長に詰め寄る風になり、アーサーも子供達も思わず立ち上がったが。

「…………申し訳ありません……」

彼は唯、深々と頭を下げた。

「……それは、どういう意味なのですか? どういうことなの? ……答えて。答えなさい!」

「ローザ、落ち着いて下さい。────手の施しようが無い、と言う意味ですか。それとも、アレンが倒れた原因が判らない、と言う意味ですか。何方です?」

「……判らないのです、何故、陛下が倒れられたのかが。胸や胃の臓が酷く痛むご様子で、ですが、これと言って……。陛下は、胃炎以外の持病をお持ちではございませんし、つい先日も、お体の具合を拝見したばかりですが、その時は、健やかであらせられました。ですから、強いて申し上げるならば、お疲れの所為で、と言うくらいしか…………」

──申し訳ない。……侍医長のその一言に、激高し掛けたローザをアーサーは宥め、酷く困った表情になった侍医長は、彼よりの問いに答える。

「過労、ですか?」

「……としか、今は申し上げられません」

「…………そうですか。でも、それが理由なら。目覚めてさえくれれば、きっと、何とかは……。他に、何処にも悪い所が見当たらないなら、きっと……っ」

その答えに、アーサーは、己自身に言い聞かせる風に呟き始め、

「目覚めてさえくれれば……?」

「はい。昏睡から抜け出してくれれば、きっと」

「アレン…………っっ」

ローザも子供達も、神や精霊に祈り始めたアーサーに倣って、手を組み願った。

「ロト様。曾お祖父様。お願いです、お願いですから、アレンを連れて行かないで下さい……っ」

「アレンを救って下さい、ロト様。曾お祖父様……っ」

神や精霊ばかりでなく、先祖達にも彼等は祈り始め────その祈りが届いたのか。

「王妃殿下! 陛下が!」

再び寝所の扉が開き、駆け出して来た若い侍医が、アレンの瞼が開いたと、声高に告げた。