分水嶺

 

前書きに代えて

 

 この小説のタイトルは、『分水嶺』と言います。
 読み方は、『ぶんすいれい』。
 降り注いだ雨、又、大地から湧き出る水が、二つ以上の河川に流れ分かれる境界線の事を、分水界(ぶんすいかい)、と言い、分水界となっている山の連なりを、分水嶺、と言います。
 簡単に解釈するならば。
 二つの分かれ目の分岐点。
 それが、分水嶺。
 何が分かれ目なのかは。
 蓋を開けてのお楽しみ…と云っていいやら、何やら(笑)。
 少しだけ。
 何時もの小説達とは、ノリが違う様な、そんな様な。
 書いた本人は、多少毛色が違うかな、なんて思ったりしております。
 では、どうぞ。

 

 

 良くある事だ。
 何時、こんな事が起こっても不思議じゃない。
 だから。
 こんなになるまで、苦しさを覚える必要なんて、ない────。

 

 エドガー・ロニ・フィガロは。
 たった今届いたばかりの、素っ気ない文章で綴られた白い手紙を、千切れそうになるまでその胸に抱えて、必死に自分にそう言い聞かせた。
 数カ月前、彼方の世界に行ってしまった自分を、現実の世界へと連れ戻してくれた、最愛の恋人からのその手紙には、彼らしいと言えば、真、彼らしい短い言葉で、『約束』の日──即ち明後日──、フィガロを訪れる事は出来なくなった旨を伝える事実が、書かれていた。
 手紙、と表現しても許されるのかどうか、それすら疑問な、唯の言伝て。
 この程度の事、良くある事で、どうと云う事でも無くて、ああ、残念だな、と、一度はそう思った。
 思おうとした。
 これは。
 約束の断わりを伝える件の手紙は、だから、どうだ、と、そう思えてしまう、些細な、本当に些細な、期待外れ。
 ……その事を。
 エドガーは頭の片隅では、とても良く、理解していた。
 自分がそうである様に、彼には彼の生活がある。
 だから、幾ら約束でも、幾ら期待でも、たまには、反故され、外される事もあっても、奇怪しくはないのだ、と。
 けれど、どうしてだろう、その時の彼は。
 感情の何処かで、それがどうしても納得出来なかった。
 数カ月前の騒ぎで体を壊してから、随分と執務の量を減らされて、手持ち無沙汰になる時間が増えてしまったから、苛立ちを感じていたのかも知れない。
 たまたま、人恋しい、そんな気分で。
 心底彼の来訪が待ち遠しい常の想いに、輪を掛けていたのかも知れない。
 とにかく。
 その時の彼には、間近に迫った逢瀬の断わりに、仕方ないな、と苦笑を浮かべる事が出来なかったのだ。
 月に一度の逢瀬。
 年で数えて十二回。
 たったそれだけの我が儘でいいのか、と、あの人はそう云ったのに。
 たったそれだけの我が儘が、通らない。
 本当にこれを云い出したら、切りの無い、子供のそれと同じ我が儘を振り翳す事になるのだと、判っている。
 とても、良く。
 でも。
 ……でも、逢いたい、と。
 愛しい人に逢いたいと願うこの想いが、叶えられなかった事を嘆くのは、我が儘なのだろうか。
 ……何処まで、我が儘なのだろうか。

 

 

 ──時は流れる。
 丁度、一月。
 それだけの、時が、流れた。

 

 

 参ったな、と。
 心の奥底で、ちらりと考えながら、セッツァー・ギャビアーニはその日、フィガロの城門を潜った。
 本当ならば、一月前にも、この門を潜る筈だった。
 出来るなら、月に一度の逢瀬を願うと。
 約束して、期待して、君を待ちたい、と。
 そう云った人との『約束』を、一月前、反故にしてしまった。
 ちゃんと、飛空艇ファルコンを駆って、フィガロに向かうつもりだった。
 その為の支度もしていた。
 けれど。
 大きなギャンブル場がある、とある街に降りた時。
 顔見知りの博徒に、出会ってしまった。
 その男が、カジノのオーナーとのいざこざに巻き込まれているのを聞かされて、まあ、云ってみれば仲裁の様な物を頼まれて。
 ついつい、彼はその頼みに応じた。
 断れなかった。
 自分の仕出かした事の尻拭いも出来ぬギャンブラーの為に、仲裁に立ってやるのも、何だ、とは思ったけれども、それでも、賭博場、と云う独特の世界を、刹那でも共有した相手の生命を、簡単に見捨てるのも、どうなのだろう、と思ってしまった。
 そんな考えは、甘いと言われる類の物であるのも充分承知の上で、そんな事をやってやろうと思う程、自分は人間が丸くなったのか?と苦笑を浮かべる結果になるのも判っていて、でも。
 ふと、思ってしまった。
 決して有り得ぬ事だが…もし、ここにエドガーがいたら。
 彼だったら……と。
 ──そんな想いに捕らわれた所為で、セッツァーは、溜息を付きながら、エドガーとの約束を反故にしてまで、顔見知りの博徒が持ち込んで来たいざこざを、丸く納める為に、若干の奔走をした。
 恋人の事を思い出して。
 知り合いに手を差し伸べて。
 それで、最愛の人との逢瀬を反故にしてしまったら、本末転倒もいい所なんだがな、と、そんな風に想いながら、それから一月。
 今日、三カ月振りに、セッツァーは恋人を訪ねる。
 先月の事を、彼は怒っているだろうか。
 出迎える気は、あるだろうか。
 ……いいや…。
 彼だったら。
 己が恋人だったら。
 何時もの様に、何事も無かったかの様に、唯、笑って。
 そっと出迎えるのだろう………、そんな想像をして。
 セッツァーは、石造りのフィガロ城の中へと消えた。

 

 

 ポンと、砂漠を渡る為の必需品を詰めた、何時もの小さな荷物を、エドガーの自室の片隅に、セッツァーは放り投げた。
「……悪かった」
 『想像通り』、常の微笑みを湛えて自分を出迎えてくれた人に、開口一番セッツァーは謝ってみる。
 言い訳をするのは御免だった。
 だが、謝罪の一言くらいは。
 そう思った。
「ああ、先月の事かい?」
 少し、罰の悪そうなセッツァーの態度に、エドガーは暫し、きょとん、として…ああ、と破顔する。
「何だ、未だ気にしてたのか。君らしくもないね」
「そうじゃない。どんな理由があろうと、お前との約束を破ったんだから。先に謝っておくのが、賢いやり方だろう?エドガー?俺は、恋人のご機嫌麗しくない顔は、見たくない。後が恐いからな」
 相手の笑みにつられたのだろう。
 セッツァーも、冗談めかして、そんな事を云った。
「君が恐妻家になり得るタイプだとは、知らなかったな。私はそんなに恐いかい?…君が私を怒らせる真似をしなければ、それで済むだけの話だと思うけどね」
「恐妻家?冗談じゃねえ。俺は、お前だから怒らせたくねえんだよ」
 くすり、二人は笑い合った。
 先月、逢瀬が成されなかった事など、もう、流されたかに思えた。
「所で、セッツァー?」
「ん?」
 エドガーは促しながら、セッツァーは促されながら、二人は、煎れ立ての紅茶が用意されているソファに落ち着く。
「君の短い手紙では、良く判らなかったのだけれども。君が仲裁する事になった諍いとやらは、片が付いたのかい?」
「ああ、まあ、な」
「そう。無事に?」
「そうだ。それがどうかしたか?」
「…いいや。良かった、と思って。それだけ」
 トポ……と、ティ・カップに香り立つ紅茶を注ぎながら、ふっ…とエドガーは又、微笑んだ。
 だから、セッツァーは。
 この城の城門を潜る時、自分が思い描いた想像が、間違いでないと、思った。

 

 

 その穏やかな午後も。
 夕餉も。
 闇の中の二人だけの時間も。
 何事も無く過ぎた。
 何時も通り。
 唯、暖かく。
 緩やかに。
 ベッドの中の、心地好い眠りも。
 何も彼も、全て。

 

 

 

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