「今日は、何時に発つんだい?」
窓から差し込む朝日の中で。
微かな衣擦れの音をさせ、身支度を整えていたエドガーが、セッツァーに問い掛けた。
「そうさな…。──実を云うと、そうのんびりともしていられねえ。もう、一・二時間って所か」
「そう…。じゃあ、少し早いけれども。朝食にしてしまおうか、セッツァー」
「ああ。頼む」
セッツァーが、身支度を整え終えるのを待って、エドガーは女官を呼んだ。
朝早くからすまないが、朝餉の支度を整えて、この部屋まで運んで来て欲しいと彼は伝えて。
その言いつけ通り、程なく、出来立ての食事が、彼の部屋に並んだ。
何事もなかった。
やはり。
朝食の席を囲んでも、互い、取り止めの無い話をしていても、食事を終えても。
空になった食器が片付けられて、部屋には別れの気配が訪れて、セッツァーが、又な、と、昨日片隅に放り投げたままの荷物を拾い上げるまでは、何事も、そう、無かった。
だが。
別れの接吻をして、回廊へと続く扉に手を掛けた時。
それは、起こった。
──ツッ…と。
彼のコートの裾が引かれた。
何事かと、彼は振り返る。
振り返った先には…咄嗟に伸ばしてしまったらしい両手で、ぎゅっと漆黒のそれを握り締めて、俯いている恋人の姿があった。
「…エドガー?」
「……すまない…。我が儘だって…判ってる…。こんな事、するつもりもなかった…。…でも…行かないで…未だ、傍にいて欲しい…と…そう……っ」
驚く恋人の呼ぶ声に、エドガーは声を詰まらせて、訴えた。
微かに。
「お前…」
手にしていた荷物を放り出して、コートを掴む手を、セッツァーは取った。
「本当は、気にしてたのか?」
向き直り、抱き寄せて、伏せた面を上げさせる。
「何を…?」
「先月の事、とか。まあ…色々と、な」
潤み掛けた蒼い眼差しで、こちらを見上げて来た彼に、ほんの少しだけ困った様な顔を、セッツァーは向けた。
自分の何処か奥底に押し込めていただけで、本当は彼は、先月の出来事を忘れた訳ではないのだと、そう思った。
そしてその事を、こんな形でエドガーが態度に示した事に、若干、戸惑いを覚えた。
決して、恋人の態度に、負の感情を覚えた訳ではなく。
意外、だったのだ。本当に。
エドガーと言えど、人間だから。
こんな風な態度を見せても、奇怪しくはないのだけれども。
でも、意外、だったから。
何を思っていても、胸の内で嘆いても、こんな弱い部分を、彼があからさまに晒すとは、思ってもいなかったから。
否…それが判らなかった訳じゃない。
唯、何故、こんな些細な拍子で?
「そうじゃないよ…」
だが、想い人は。
違う、と、ゆっくり、首を振る。
「じゃあ…何だ?」
「先月。君に、逢えないんだ、と、そう思った時。耐えられなかった。少しだけ。君に会えない事が、何処かで、納得出来なかったんだ…」
「お前、やっぱり──」
「そうじゃない…そうじゃないんだ、セッツァーっ…。その事を云ってるんじゃない。君がいない。いてくれるべき時に、君がいない。それが、どう云う事かっ…って…」
「おい、エドガー?」
──その時の、恋人の態度は。
まるで、むずかる幼子の様だった。
だからセッツァーは益々困惑を覚える。
彼が、云わんとしている事も、良く判らなかった。
「だから…」
「…だから、納得行かなかったんだろう?俺がこなかった事が気に入らないのか?それとも、俺がお前ではなく、顔見知りを取っちまったって事が、気に入らないのか?約束を、守れなかったのは、すまなかったと思ってる、だが……」
恐らく。
エドガーが伝えようとしている事は、そう云う類の事なのだろうと踏んで、彼はそう云ってみた。
だが、それでも相手は、違う、と首を振る。
「違う…。そんな…そんな事じゃない。君には君の、生活があって、私には私のそれがある。良く、判ってる。それを訴えたいんじゃない……。たまたま、苛立ってたのかも知れない、私は。人恋しかっただけかも知れない。だから、君が訪れてくれなかった事を、大した事じゃない、と、流せなかったのかも知れないけど……。唯…思い出した…」
引き止めておきながら。
抱き寄せてくれた人に、抱擁を返す勇気が、今の彼にはないらしい。
セッツァーの、コートの襟をつまんで、思い出してしまったのだと、エドガーは。
「思い出した?何を。俺は、お前に哀しい何かを思い出せちまう様な、そんな馬鹿をしたか?」
「君が何かをしたんじゃない。……そんなんじゃない。君に逢えなかった…君と離れていた、数カ月前を思い出しただけ…。狂気の世界に…行ってしまっていた自分を思い出しただけなんだ…」
「…………お前……」
──狂気の、世界。
その言葉を、エドガーに、舌の上に乗せられて。
一層、セッツァーの困惑は深くなった。
あの事は、もう。
互い、乗り越えた筈では、なかったのか、と。
どうするべきか、彼は腕の中の人を見つめてみたけれど。
エドガーは、見つめ返す事が出来ないとでも云う様に、又、俯いていた。
「分水嶺…って、あるだろう?セッツァー」
そして、面を伏せたまま、彼は続ける。
「ん?ああ。分水嶺がどうした?」
「君に、逢えない、と、そう思った時にね……。ふと。私はまるで、分水嶺の峰に、立っているみたいだ…って……そう…感じたんだ…。私は何時も、あの峰に立っていて。君がいれば…君がいてさえくれれば。望むべき谷を私は下れる。でも、君がいなければ。私は、望まぬ谷を下ってしまう…」
襟をつまんでいた指先に力を僅か込めて、ゆっくり、彼は顔を上げた。
「私なんて所詮。何方の谷を下るか、自分では、決める事すら出来ない、唯の水の流れで。君がいなかったら…簡単に、違う海に落ちてしまう。向かうべき、場所じゃないと判っていて。君がいない。たったそれだけの事で私は、分水嶺の、水の分かれ目の尾根で彷徨う、どうしようも無い人間でしか、ないんだって……」
「エドガー…」
「判ってる。約束でも、期待出来ても、何時だって、それが当たり前の様に叶う筈ないって。でも、君が傍にいてくれなかったら、駄目だ、と…そう感じてしまう夜は、私にだってあるんだ……」
その時、ぽろっと。
エドガーの眦から、何か光る物が零れ落ちた様な気が、セッツァーはした。
幾許か強く抱き寄せ直して、指先で頬に触れてみたが。
そこは、濡れてはいなかった。
「君を困らせているね……。子供の様な我が儘を云ってる自覚だってある。でも……でもっ。君に逢えなかった事を嘆くのは、我が儘なのかな…?それを君にぶつけるのは、利己的なのかな…?私はこんなに…嫌な人間だったかな…?君を、困らせて、自分の想いだけ……。でも……っ。何事も無かった様に、何時の様に…去って行く君を、笑って見送る事なんて、今の私には出来ない……。君が…愛しいのだもの…。君を、返したくないのだもの…。このままじゃ。私は分水嶺で迷いそうだ…。何処で、間違ってしまったのだろうと……君の背中を見て、そう想いそうでっ……」
「……………大馬鹿野郎」
セッツァーは。
想いの丈をぶつけながらも、何時まで経ってもその腕を伸ばそうとしないエドガーに、一言、そう云った。
「ああ…。判ってるよ。自分でも。愚かだな……って」
「そうじゃねえよ。俺が馬鹿だと云った理由はな。分水嶺、か……。そんな…そんな悲壮な顔して、行くな、なんて云わなくったっていいじゃねえか、エドガー。寂しかったんだってな。そう言えばいい。簡単な事だろう?…お前には、難しい事だと、それも、判っちゃいるがな。………馬鹿」
今にも震え出しそうな体、そこに沿えた腕に。
セッツァーは軽く、力を込めた。
頬に垂れ掛かり、表情を隠す金のほつれ髪を掻き上げてやって。
彼は、微笑んだ。
「俺はお前の、何だ?」
そして、そう彼は尋ねる。
「恋人…だと、思っているけれども…?」
「それが判ってるなら。そっから先も判るだろう?お前が俺に何を望んでも。何をねだっても。我が儘、なんて事はねえさ。多分、な。それが、俺に出来る事であるなら」
「だって。…私は君に望むばかりだから…」
「俺だって、お前に望むばかりだ。お前はどれだけ。俺の我が儘を、笑ってやり過ごして来た?そうだろう?」
「でも……」
「…………うるさい」
言い分に、口の中で何かを言い返したエドガーを、セッツァーは一言で、黙らせた。
「気が変わった。未だ、朝日が登ったばっかりだ。朝飯は喰っちまったが。少し、寝直すかな」
「……セッツァー……でも……それじゃ……」
恋人の体を離して、するっと、着込んだコートを脱ぎ捨てた彼に、エドガーが慌てた。
「勘違いするな。お前が望んだから、じゃない。俺の気が変わったから、だ」
が、きっぱりとセッツァーはそう言い切る。
望まれたからじゃない。
自分を曲げた訳でもない。
選んだのは、自身だ、と。
「ほら。来な。お前の時間が許すなら。今日は一日、のんびり過ごすのも、悪くないだろう?」
「ああ…。そうだね」
誘う様に右手を差し出されて。
そしてその手を取って。
漸く、エドガーは何時もの笑みを取り戻した。
二人は部屋を横切り、靴を脱ぎ捨て素足になって。
もう、温もりは消えてしまったベッドの中へと、もう一度、潜り込んだ。
天蓋の外から、未だ朝色の名残を留めた陽光が忍び込んで来ていた。
何処か寝乱れたベッドが、微かな軋みを上げて。
白い布で覆われた縁から、長い金髪が、乱れ、零れた。
流れた髪を追う様に、白い腕が伸ばされ、形良い指先は布地を掴んだが。
更にその手を追った、もう一人の手に、指先は絡め捕られた。
固く結び合った双方の手は、離れぬまま、白い布地の海へと戻る。
吐息と、契りの言葉と、衣擦れの音は、やがて止んで。
静寂だけがそこに舞い戻っても。
結ばれた指先は、そのまま、だった。
安らかな、寝息が何時しか、洩れても。
「なあ、エドガー」
「…ん?何だい?」
「お前はお前の云う通り、分水嶺の峰に、立ち続けるのかも知れない。でもな。俺はお前の傍にいる。必ず、傍に」
「セッツァー…」
「例えばお前が何処かで違えて。俺が傍にいても、違えて。望まぬ谷を下って、違う海に落ちても。お前の傍に、俺はいるから。──お前、云ったな。俺がいれば、望む谷を下れる、と。…だがな。俺は、お前の流れを正す、岩にはなれない。俺も又、谷を下る唯の水だ。お前と同じ。でも。お前が違う海に落ちても…俺はそこにいるさ。何処で、違えてしまったのかと、思わせたりしない。望む海でも、望まぬ海でも。海は海だ。お前がそこに落ちるなら。俺も又、そこにいる。必ず、な」
──分水嶺。
流れを違える、山の連なり。山の峰。
背を背け合う谷を下り、それぞれの海に落ちた滴は。
それぞれの海に落ちた時、何処で、違えてしまったのだろう…と、そう思うかも知れない。
何処で、私達は、行く道を違えてしまったのだろう、と。
けれど。
行く先が同じなら。
注ぐ海が一つなら。
海は海、世界は世界。
例え、分水の峰に立ち続けるしかなくとも。
爪先立ちの恋でも。
あやふやな愛でも。
注ぐがれる先が一つなら。
それも又、流れ。
それも又、行く道。
恐れなければいい。
その想いの限りに求める事を。
その想いを吐露する事を。
穏やかなだけの流れなど、この世には有り得ず。
淀み、逆巻き、流れは苛立つのだから。
それでも、向かう先が一つなら。
分水嶺の運命など、嘆く必要はなくなる。
思う、必要も、なくなる。
──分水嶺。
流れを違える、山の連なり。山の峰。
その流れを違えなければ。
何処までも、行く先は、一つだから。
thank you by Kaina Umino
since 09.Aug.2000.
BGM nothing
後書きに代えて
final fantasy VI ショートストーリー『分水嶺』。
如何でしたでしょうか。
煩悩だけで小説を書くと、こうなります、と云う、見本の様な小説(笑)。
しかも、決して、良い見本ではない…だろうなあ…。
どーにも、唐突に、激情、と云う類の想いに陛下が駆られてしまったらどうなるんだろう、と、そんな事を考えてしまいまして。
書いてみた小説なんですが。
………何か……何時ものエドガーと性格、ち、違う……?セッツァーはセッツァーで…何か……変…?
…まあ、いいです。
良しにします。
こんな事だって、あるだろうさ。いいや、きっとある。あるさね。
終わりの方に行くに従って、煩悩が、何処か知り蕾になり、そんな事を自分で自分に言い聞かせながら、書いてました。
そもそも、行かないでだの、帰したくないだの、あんまり云う方じゃないみたいなのですよね、我が家の国王陛下。
うーむ。
激情、なんて物をテーマにしようとした自分が、愚かだったのかも知れません。
又、その内、凝りも果ても無く、この手のテーマ、挑戦してみたいと想います。宜しければ皆様、ご感想などお待ちしております。