夕闇が、その円形のガラス窓から、ひたひたと迫り出す頃。
 機関室で倒れたエドガーは、担ぎ込まれたキャビンの寝台の中で、漸く、目を覚ました。
「…………だれ…?」
 射し込む淡い、オレンジ色の陽光が、室内を逆光に照らし出すから、傍らに佇む人の正体が掴めなくて、彼は、ぼんやりと、問う。
「エドガー? 気が付いたか?」
「ああ……。セッツァー…?」
 気遣う調子で返された声は、確かに恋人のもので。
 安堵したように、緩慢に瞼を閉ざしつつ、息と共に彼は、傍らの人の名を吐いた。
「思い出したのか? 戻った、のか?」
 吐かれた名前の発音に。
 佇んでいたセッツァーは、幾許か血相を変えて、枕辺を覗き込む。
「……何が?」
 不意に近付いて来た恋人の面に、閉ざし掛けていた瞳を開いて、エドガーは不思議そうな顔をした。
「いや……その……」
「変なセッツァー…。私は、何ともないよ? それよりも、ファルコンは? 突風……だったのかな……。君が、ヘマなんてやる筈がないしね。神々の住まう山は、君にさえも、嘲りを放つんだな……。怪我…しなかった……? 他の皆は?」
「無事だ。……長い間、気を失ってたのは、お前だけだ」
「…そう。そんなに長い間、私は意識がなかったんだ。……失態だな。……ああ、でも……」
 不可思議な態度で、言い淀むセッツァーに、寝台に横たわったままエドガーは、肩を竦め。
 まるで、何処か遠くの空でも、見遣るかのように。
 どことなく、うっとりとした表情で、天井を見つめた。
「何か……幸せな夢を、見ていた気がするんだ…。優しい、夢……。夢の中で私は…叱られてばかりだった子供の頃に戻っていてね。謝って、泣くしか出来ない私を、父が優しく…………。本当は、厳格なだけの人だったのに……。立派な人、ではあったけれども…。幸せな夢だったよ。…でもね、途中で、気付くんだ。父じゃない…って。父はもっと、厳しかった、こんな愛され方は、私の記憶にはない、って。途中で私は思って……ふっ…とね。こんな風に私を愛してくれるのは、誰だったろう……って考えて……君を、思い出して。そうしたら、目が醒めた。夢だって云うのに。馬鹿みたいだろう?」
 『長い眠り』の中で、幸せな夢を見ていた、とエドガーは云い。
 夢なのだから、淡い希望だけを叶えたって構わないのに、と笑い。
 どうして、父と君がダブったんだろう、と、困惑を浮かべた。
「………エドガー。お前、な」
 セッツァーは。
 横たわったまま見遣って来る人の、枕辺へ腰掛け。
 長い、金の髪を撫で。
 少しだけ、哀しそうな顔を作った。
「…ん?」
「お前、物心付いて、最初に覚えた言葉、『御免なさい』、だったろう?」
「………ああ、そうかもね」
「だから、そんな『夢』、見んだよ。……馬鹿」
「そんな夢?」
「愛されたかった……って、夢」
「……うん。そうかも…知れない……」
 恋人の語ることに、思い当たるものでも、あったのたろう。
 エドガーは静かに、溜息に似た息遣いをしたが。
「お前が、御免なさいしか言えないガキでも。生意気に育った『大人』でも。俺は愛してやるから。もう、勝手に何処かに行くなよ」
 髪を撫でる手を止めず、セッツァーは告げた。
「……話が飛躍し過ぎていて、君の云いたいことが、良く判らないんだが……」
「お前、厳しかったってお前の親父が、それでも、好きだったんだろう? 愛されてるって、自信がなくとも。その癖。『思い出』には、諦めしか覚えてねえんだろう? …原点が違うものに、同質のものを求めて、でも、途中で違うって気付いたってことか。んなこと、その年になっても考えてるから、訳の判らねえ所に行っちまうんだ、馬鹿。ま、それでも? 『パパ』と俺が違うって気付いた部分だけは、誉めてやる」
「………………。セッツァー? 熱、あるのかい? 君が何を云っているのか、私にはさっぱり理解出来ない。誰が誰のパパで、パパと君が違うって、私が気付いたって……どう云う意味だ? 訳の判らない所に行っているのは、君の方じゃないのか? 何か、悪いものでも食べた?」
 云われていることの、十分の一も理解出来なくて、エドガーは、眉間に皺を寄せる。
「判らないなら、正常だ」
 恋人の皺に、大仰な頷きを返し。
 ツン…と、撫でていた髪を掴み、引いて。
「じゃな。大人しく寝てろ。ガキ」
 くるりと踵を返すと、セッツァーは、キャビンを後にしてしまった。
「…………変なセッツァー……。何処か、頭でもぶつけたのかな……」
 一人、その部屋に置き去りにされたエドガーは、きょとん、と目を瞬いたが。
「ま、いいか……。元々彼は、変人だし」
 己の恋人への評価としては、相応しくない例えで納得を示すと。
 軽く寝返りを打って彼は、眠ることに決めた。
 

 

 翌々日。
 様々な事情で手間取った、飛空艇の修復を、何とか終え。
 彼等は再び、大空の旅へと戻った。
 エドガーが記憶を失っていた、一日と少しの間に起こった出来事は、セッツァーが、皆にきつく言い渡した所為か、全員が、口を噤んだまま、決してエドガーには語ろうとしなかったから、眠っていたとエドガー自身は固く信じているその時間の中で、本当は何があったのか、彼だけは知り得ぬまま。
 飛空艇は、神々の頂きを後にする。
 辛いことの多かっただろう幼少時代を持つ人が、その時代を垣間見せた、山々の嘲り多き、谷間を。
 その谷間に、置き去りにするように。
 ──幼少の頃。
 大好きだった人に、愛されている自信を持てなかった彼に。
 二度と、同じ思いを味あわせることなきように、と、一人の男が胸に掲げた誓いだけを拾い上げて。

 

 

 

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By Kaina Umino
since July.22.2002.

 

 

 

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