翌日。
 空軍にての任務を終えて、自室の前に立ったセッツァーは。
 己の部屋に入るには相応しくない、決死の表情を浮かべ、扉を開けた。
 又、馬鹿猫の嫌がらせを受けて、室内は惨状を呈しているのではないかと、想像してしまった為だ。
 一年戦争の英雄とうたわれた男の態度にしては、誠に涙を誘うそれではあるが、当人は、真剣である。
 昨夜、猫砂播き散らしの刑に引き続き、キャットフード撒き散らしの刑を受け、その後更に、アニーの嫌がらせはエスカレートし続けて……だから……──。
 だが、想像に反して室内は、朝、彼が出掛けた時のままだった。
 砂場以外の場所に、わざとらしい『粗相』をされた形跡もない。
 だから彼は、ほっと胸を撫で下ろした。
 戦争中、敵国の戦闘機とのドッグファイトを終えて帰還した時でも、この様な安堵を覚えた事はないのではないかと思う程。
 所詮、相手は猫。たかが、畜生、なのだが。
 知恵には恵まれたらしい馬鹿猫は、猫と侮っていると痛い目を見ると言う事を、この一ヶ月でセッツァーは、身に沁みるまで学習している。
 真剣に争うのも、人間様である己の立場を鑑みれば、馬鹿馬鹿しい事この上ないし、何より相手は、外見だけは愛くるしいから、アニーを盲目的に溺愛しているエドガーの目には、自分とアニーの『戦い』は、『動物虐待』としか映らないので、歩も悪い。
「ツァー、たぁ良く言ったもんだ……」
 一度、アニーを矯正しようとして、手酷い目を見たマッシュから聞かされた、城内でのアニーのあだ名を思い出し。
 軍服を脱ぎ捨て、ラフな格好へと着替え終えたセッツァーは、どさりとベッドに身を投げ出した。
 主人の寵愛──としか表現の仕様はない──を一身に受け、我が物顔で君臨し、エドガーと己との甘い一時を、尽くぶち壊して歩く馬鹿猫の事を考えると、彼の気分は重たくなる。
 首根っこを掴んで、何処かに放り捨ててこようかと言う誘惑に駆られる程だ。
 ……くどい様だが、アニーはたかが、猫である。
 なのに……なのに。
 ──己とアニーとの、『力関係』の現実に。
 セッツァーは激しい眩暈を覚え。
 眉間の辺りを押さえながら、目を閉じた。
 ……と。
 ぺちぺち、と。
 恐ろしく覚えのある感触が、対アニーとの諍いと、その日の任務で疲れ果て、うとうとし始めた彼の頬を撫でた。
 うっすらと両目をこじ開けて、彼はちらりと、視線を横に流す。
 すれば、思った通り、そこには視界一杯に広がる、アニーの臀部があって。
 白くて長い尻尾が、己が頬を叩いていた。
 ……そう、誠に賢く、エドガー以外の人間様を小馬鹿にして歩くこの猫は、よくセッツァーの頬を尻尾で叩くのだ。
 例えば、馬鹿にする時。
 例えば、何か要求がある時。
 例えば、エドガーと彼が良いムードの時。
 大抵、アニーはそうする。勿論、エドガーには決して……以下、略。
「不本意なんだがな。……ああ、激しく不本意なんだがな。俺は一応……英雄と言われる事もある軍人で……。エースパイロットなんだ……。…………何でその俺が、お前如きにケツを向けられて、尻尾で呼びつけられなきゃならねえんだよっ、この馬鹿猫っっっっ!!」
 がばりと起き上がりざま。
 セッツァーは声高にそう叫んで、アニーの尻尾を掴むべく、手を伸ばした。
「ニャァッッッ」
 だがアニーは、掴まれかけた尻尾をするりと逃して、トンと、床の上に降り。
 金緑色の瞳でジーーーーーー……っとセッツァーを見上げ、付いて来い、と言う仕種をした。
 人間様──特にセッツァ一 ──には、かなり屈辱的であるが。
「何なんだよ……」
 ここで逆らうと、かなり手酷い逆襲が待っていると言う事も判っているので。
 一先ずは大人しく、馬鹿猫のやりたい様にさせてみるしかない、と渋々ながら、彼は後に付き従った。
 さながら、皇帝陛下の侍従の如き有り様である。
 ここで、だからアニーがつけあがる、と云う思考に彼が辿り着く事が出来れば、この力関係にも変化は訪れるのかも知れないが、これでいて結構『英雄』殿は、凶悪猫に、精神的に追い詰められているので、中々、その思考には到れないのだろう。
「ニィッ」
 さて、セッツァーを従わせたアニーは。
 キッチンの、シンクの上に飛び乗って、水道の蛇口とセッツァーを見比べ、一声、鳴いた。
「水汲めってか? ちゃんと支度してやったろうが」
 何となく、『敵』の要求が飲み込めて、仏頂面のまま、彼は答える。
 が、近付き、部屋の片隅の餌場を指差してやったら、シャキン……と伸びた爪で、手の甲をバリっとやられた。
 溜息が出る程見事なミミズ腫れから、うっすらと血が滲む。
「アニーっ!」
 ……幾ら、精神的に追い詰められているとは云っても。
 セッツァーとて、何処までも『あの性格』であるので。
 当然彼は、怒り半分、これはいけない事なのだと躾るつもり半分で、アニーに手をあげた。
 だが。
 ツァー、とさえ呼ばれる凶悪悪知恵猫が、格下でしかない人間様のそんな『躾』を、簡単に享受するだろうか。
 否、する訳がない。
「ニャン」
 アニーは。
 セッツァーが振り上げた手をさっと交わし、一体、己の行動の何がいけないのだ、と云わんばかりの顔をして、苛々と、シンクの上で足踏みをした。
「お前、なあ……。まさか、ここで水を飲ませろって云うつもりか?」
 こいつに対しては、何も彼もが無駄だ、と、刹那、悟って。
 げんなりと、セッツァーは猫との対話を始めた。
「ニャーーー」
 問い掛けを、肯定する様な声を、アニーは出す。
「お前……長生きだけはするなよ……」
 敗北宣言、白旗上がる、とも取れる台詞を零して。
 セッツァーはチロチロと水が流れる程度に、蛇口をひねってやった。
 要求が通り、御満悦な態度で、シンクに流れる水を舐めるアニーをその場に残し。
 とぼとぼベッドへと戻る彼の背中は、哀愁で満たされていた。
 ひょっとしたら彼はその時、一体誰が、猫の毛だらけになったシンクを掃除するのかを、考えていたのかも知れない。

 

 その日の深夜。
「頼むから……早く引き取りに来てくれ……」
 明日の午後には官舎に行けるから、と、サウスフィガロから電話を掛けて来たエドガーに。
 力ない声音で、セッツァーは訴えていた。
『どうして? アニーが何かした? 元気がないとか? あ、ちゃんと食事をしないとか?』
 ……どうにも、愛猫の事になると、『正常』に思考が回転しないらしい。
 エドカーは、恋人のげんなりとした声を、ペットの具合が宜しくないが故の心配の声音と受け取った模様で。
 セッツァーの精神的ダメージに拍車を掛ける台詞を吐いた。
「そうじゃない……。そうじゃねえよ……。あの馬鹿猫は、この上もなく元気だ」
 くらくらと、又襲って来た眩暈を堪え、彼は答える。
『何だ、元気なら問題ないじゃないか。「仲良く」やってる? 大人しい子だから、大丈夫だと思うけど。あんまり、理不尽な事でアニーを叱ったりしてないだろうね、セッツァー』
「…仲良く、な……。仲良く、ねえ……。ああ……、やってるよ、仲良く、な……。もう……好きにしてくれ……」
 最愛の恋人に対して。
 親馬鹿、とか、猫馬鹿、とか、そんな表現しか浮かべる事が出来なくなって。
 彼は、投げやりになった。
『はあ? 君、何を云ってるんだい? ……まあ、いいか。兎に角、明日、戻るから。じゃあ、そろそろ、切るよ。お休み、セッツァー』
「お休み……。明日、な……。愛してるよ……それでもな、お前の事を、な……」
 だから、怪訝そうな声が、電話の向こうから聞こえて来ても。真実を訴える事は出来ず。
 猫を飼い出してから、何処か、タガが外れてしまった様な恋人に、それでも愛していると告げ……いいや、それでも愛しているのだと、己自身にセッツァーは言い聞かせる。
『私も、愛してるよ。お休み』
 けれど。
 彼の嘆きは、最後までエドガーに伝わる事はなく。
 何時も通りのやり取りで、電話は締めくくられた。
 受話器が置かれ、チン…………と、空しい音が室内に響き。
 セッツァーは、宿敵との戦いに、完璧な勝利を治めたと悟ったらしいアニーが中央で丸まるベッドの上に、視線を走らせる。
 本当に本当にくどい様だが。
 たかが一匹の猫、でしかないアニーの為に。
 生涯の愛にさえめげそうだと、この世の全てを儚みながら、彼は部屋の灯りを落とした。

 

 更に翌日、午後遅く。
 セッツァーの帰宅時間に合わせる様に、エドガーが官舎にやって来た。
「すまなかったね、面倒な事を頼んで」
「いや……別に……」
 にこにこと、微笑みを浮かべ、愛猫を引き取りに来た『この』恋人に、今更訴える事など何もない、と。
 唯々侘びしく、セッツァーは出迎える。
 玄関のドアを閉め、上がり込んだエドガーの足元へ、とことこ、アニーもやって来た。
「ただいま」
 だが嬉しそうに擦りよって来た、常なら、何を置いても抱き上げるアニーに声だけを掛けて。
「セッツァー、君、何処か具合でも良くないんじゃないのかい? 風邪でも引いた?」
 エドガーは、恋人の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
「夕べの電話、どことなく、元気がなかったから。今も、何か、落ち込んでるみたいだし。それとも、空軍で何かあったのかい? 又、上官と言い合ったとか?」
「……ああ、そんなんじゃない。別に具合が悪い訳でもねえし。やり合って来た訳でもない。一寸な、猫の世話に、慣れなかっただけだ」
 ──心配そうに、エドガーが見つめて来た事には、喜びを感じはしたものの。
 さすがに、真実を告げる訳にもいかなくて、セッツァーは言葉を濁した。
「そうかい? なら良いのだけれど。…無理矢理ね、君にアニーの事を頼んでしまったから、申し訳なくて。体調を崩してしまったなら尚更、と思ったんだ。良かった、君が何でもなくて」
 そんなセッツァーの胸の内を過る、様々な思いに気付く事もなく、エドガーは恋人の背に腕を廻し。
 軽く、キスを贈った。
「食事、未だだろう? 何処かに出ないかい? 時間、作って来たんだ。アニーの面倒を見て貰ったお礼もしようと思って」
「礼をされる程、大した事をした訳じゃねえよ。……ま、腹が減ってるのは事実だから。折角だ、出掛けるとするか」
 ……人間とは、案外、手軽な生き物である。
 争うレベルが、低次元と云えば低次元だが……三日の間離れていた、目の中に入れても痛くない筈の愛猫よりも先に、恋人が、己の事を気に掛けてくれて、滅多にする事のない、エドガーからの接吻をされて。
 生涯の愛さえも疑う所まで追い込まれていたセッツァーの機嫌は、比較的──それでも、比較的──上昇した。
「もう少し、待ってておくれ、アニー」
 と。
 そこで漸くエドガーはアニーを抱き上げ、留守番を言い渡す。
「『大人しく』してろよ、馬鹿猫」
 エドガーの肩にしがみつきながら。
 ジト目で自分を『睨んで』来るアニーに、嫌味を──猫に嫌味を告げるのもどうかとは思うが──云ってやる余裕さえ、セッツァーには生まれた。
 もう一度、絶対の主人であるエドガーがここに戻って来る事をアニーはちゃんと知っている。
 だから、不在の間に、嫌がらせをされる心配もないので。
 余りにも低レベルな発想ではあるが。
 この数日負け続けていた馬鹿猫に、一矢報いる事が出来たと、漸く溜飲を飲んで彼は、最愛の人との『邪魔の入らない』一時を過ごす為に、出掛けたのだった。

 

 だが。
 猫とは思えぬ知能に恵まれたアニーにとって。
 二泊三日に渡る、最愛の主人との別れを耐え忍んだ、この世の中で、絶対の主人の次に偉い己よりも。
 宿敵でしかない、格下の生き物であるセッツァーを、その、絶対の主人たるエドガーが優先した事は、堪え難い屈辱だったらしく。
 この後暫くの間、顔を合わせる度、セッツァーに対するアニーの執拗な嫌がらせは続いた。
 どうやら、皇帝と云う異名を取るエドガーの愛猫の中で。
 セッツァー・ギャビアーニ空軍大尉殿は、単なる『宿敵』ではなく、それ以上に憎むべき存在、『恋敵』へと昇格したらしい。

 

End

 

 

 

後書きに代えて

 

 ……不憫ですねー、セッツァー(笑)。
 猫は長生きをする生き物です。頑張って、戦って頂きましょう。
 仕方ないじゃないですかねえ、エドガーが猫、好きだったんですから。んでもって、猫狂いをするタイプだったんですから(笑)。
 ほほほほ。私は悪くない(←投石可)。
 こういう話でもないと、無条件でセッツァーを苛めらないものですから…。管理人、一寸暴走。たまには、セッツァーを苛め倒してみたいんです。ええ。

 

 

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