──京梧──

夏の訪れを告げる恒例行事──大川の川開きの夜を境に、本当に、江戸の町は暑くなった。

どうしようもなく。

その内に誰か、霍乱でぶっ倒れるんじゃねぇか? ってな暑さが続いた、正味にして七日程の間に、俺は段々と、苛立ちを感じるようになっていた。

その頃の俺が感じてた苛立ちは、多分、遣り場の無い思いを持て余していたから、なんだと思う。

その七日の間に俺達が出会した出来事は、この思いを何処にぶつけたらいいんだと、誰彼構わず問い質したくなっちまうような代物ばかりだったから。

俺は、俺達は、自分の中の正義に従う、との思いは揺らがなかったから、こんなことなら、いっそ、鬼道衆の連中と一緒に戦った方が、ってな具合に、頭に血を上らせることはなくなってたが、それでも、出来事は遣る瀬無く。

どうしたら、この、目の前に掛かってる濃い霧のような何かは晴れる? との苛立ちは、少しずつ少しずつ、俺の中で大きくなっていった。

────この世が幾ら世知辛かろうと、腹の底から肝の中から、全て真っ黒に染まっちまってる程の悪党ってな、早々はいない。

生まれてこの方、一点の曇りもなく生きて来た善人ってのも、早々はいない。

……それと同じで。

鬼道衆の連中にも、黙って頷いてやる他ねぇ事情も言い分もあって、けれど、到底許せねぇやり口を見せることもあって。

幕府の中にも、俺達みたいなのに肩入れしてくれる、この国の行く末ってのを真に考えてる奴等はいて、でも、腐ってる奴は腐ってて。

何方も、全てに頷けはしねぇが、だからって、背を向け切ることも出来なくて。

どうして……どうして、こんなことになっちまうんだと、向き合い続けた出来事より、そう思わざるを得なかった俺の中には、苛立ちだけが募った。

江戸の町を、江戸の町に住まう連中を護ること、手を差し伸べたい奴に思うまま手を差し伸べること、護りたいモノを護ること、その、全てを。

……全てを叶えること出来たら、遣る瀬無さが生む俺の中の苛立ちも、綺麗に吹き飛んじまうんだろうにな、との、そんな思いと共に。

確かに、俺の、俺達の正義に従い道を歩きつつも、遣る瀬無さや苛立ちを抱えながらの毎日を送ってた最中。

俺達は、等々力不動にて九角天戒と相見えた。

鬼道衆の頭目である奴のツラを拝んだのは、それが初めてだった。

──あいつは、江戸の地脈だか氣脈だかを乱す為にとかで──詳しいことは忘れた。てか、端っから覚えてねぇ──、天海って坊主の霊を、幾度かやり合ったってーか、俺から突っ掛かって伸しちまったっつーかな、臥龍館道場の『若先生』の桧神美冬に降ろそうとしてた。

なんんだで九角の奴には逃げられちまったが、二百とン十年眠り続けた天海の霊を叩き起こすって連中の企みを頓挫させることは出来て、けれど、あいつを探してる最中、異変が起こっているらしいと気付いた内藤新宿に戻ってみれば、今度は、付け火騒ぎが俺達を待ち構えてた。

が、それだって、ちょいと八丁堀の旦那と悶着を起こし掛けはしたが、鎮めることは叶って。

だってのに、何がどうしてどうなったんだか、その時の俺達には判らなかったが、龍閃組に、幕府転覆を謀る謀反人達の集団、との言い掛かりを吹っ掛けられるってな、次の騒ぎが起こった。

火事の後始末を手伝う為に町に出てた俺と龍斗の目の前で、根も葉もない言い掛かりを付けられた百合ちゃんは捕らえられちまって、幕府とやり合おうなんて間違っても思うんじゃない、って百合ちゃんの言い付けに従い、その場は大人しくしたが、大慌てで火盗の連中に取り囲まれちまってた龍泉寺に取って返した処で、俺も龍斗も堪忍袋の緒が切れた。

捕り方共とやり合って、俺達に謀反人の疑いを掛けた張本人の、「どっか頭でも打ったんじゃねぇのか?」と言いたくて仕方無かった松平容保の手先の、『鬼兵隊』とか言う、外法とやらが作り上げた化け物ともやり合って、でも。

あんなことでもなかったら、俺達なんぞじゃ一生お目に掛かれなかったろう公方様が、わざわざ上方から舞い戻って来てくれたりしたお陰で、龍閃組の危機って奴は、何とかなってくれた。

本気で叩っ斬ってやろうと思った容保の親父は、黒繩翁って名の訳の判らねぇ輩に取り憑かれてただけだったし、そいつも、円空のジジイが祓った。

あの、悪霊なんだか物の怪なんだかヒトなんだか、って輩を取り逃がしちまったのだけが頂けねぇが、鬼道衆と繋がってるって訳でもないらしい黒繩翁は、ここの処で溜まりまくった『苛々』を存分にぶつけられる相手のようだったから、俺の『気分』は、まあ、そんなには悪くなく。

それから、瞬く間に半月程が経った。

容保の親父から引っ剥がされた黒繩翁の奴が言い残した、半年の後、江戸の町もこの国も、闇が覆い尽くす、との、単なる捨て科白とも思えねぇそれの手掛かりと、あの野郎自身を探す為、俺達は江戸の町を歩き回ったが、何一つ、掴むことは出来なかった。

唯、暑さと徒労故の汗だけが無駄に流れた。

それ処じゃなかったから、その頃には、黒繩翁や、一連の出来事に関して何やら思うことが出来たらしい龍斗は、両国広小路の例の見世物小屋に通うのを止めていて、だから、自然、俺の足も両国から遠退いた。

…………もしも、って奴だ。

言ってみても詮無いことだ。

でも、今にして思えば。

もしも、徒労だけで流れたあの半月の間、一度でも、龍斗と共に両国広小路に足踏み入れていたら。

あの見世物小屋を訪れて、何としてでも、いけ好かねぇ例の小家主を口説き落としていたら。

不吉なお告げを龍斗に与えた『人魚姫』──比良坂に会えていたら。

水無月の終わり、俺達が迎えた運命さだめは、何かが違ったのかも知れない。

……本当に、言ってみても詮無いことだが。

もしもは、もしも、でしかないから。

…………でも、もしも────

今ならば言える、『もしも』は起こらず。

あの女が龍斗に与えた不吉なお告げ、その意味を、誰一人として解することなく、あの騒ぎの夜から半月が流れた水無月の終わり。

俺達の運命さだめの一つが、幕を閉じた。