──龍斗──
これ、と言う手掛かりも手応えも無く、唯ひたすら、当てもなく江戸の町を彷徨う毎日が続いて半月。
どういう訳か鬼道衆も鳴りを潜めた為、騒ぎらしい騒ぎも起こらず、平穏な日々ばかりが繰り返され、段々と、誰もが、あの夜の出来事は、黒繩翁なる輩の言い残した不吉な一言は、夢だったのではないか、と思い始めていた。
黒繩翁、と言うモノすら、幻であったが如くに。
私自身、江戸の町中を歩き回りながら、そのような『夢』を覚えることしばしばだった。
けれど、私には『皆』の声があったから。
時には優しい言葉で、時には厳しい言葉で、惑わされてはいけないと、『皆』が私を叱ってくれたから、気が遠退くようだった暑さの最中でも、余りの手応えの無さに挫けそうになった探索の最中でも、何とか前を向いていられて、徐々に、「黒繩翁の言い残したそれが、どうにも気になるけれど、このまま、本当に何事もなかったように、江戸の町の騒ぎも怪異も鎮まるのではないか」と口々に洩らし始めた仲間達を諭す役目が、私に廻ってくるようになった。
京梧も、あいつを見付けたら、問答無用で叩き斬る、と事あるごとに言いつつも、
「あの晩の俺達ゃ、夢でも見てたのか?」
と、洩らす機会が増え始めて。
その度、
「そんな筈は無かろう?」
と、私は苦笑を浮かべつつ、京梧と私自身に言い聞かせたけれど……────。
────平穏は続いて。
本来ならば、僅か半月、と例えられるのだろうけれど、桜の花の盛りの頃より、息つく暇
少しずつ、少しずつ……、私の心は、鬼道衆や、黒繩翁や、江戸の町を巡ることから逸れ始めた。
上方から帰って来た辺りから、黒繩翁に取り憑かれていた容保公が引き起こした時諏佐先生の捕縛や、火盗改方による龍泉寺包囲の騒ぎの夜から暫くが過ぎるまで、余りにも毎日が忙しなかった所為で私の心の奥底に沈んでしまっていた、桜の古木に教えられた、「私は京梧に恋をしている」との想いのことへと。
……初夏の頃の、あの出来事が遠くなり始め、上方へ行き、江戸へと戻り、大川の川開きを迎えて……、と時が流れた間、別段、私にも京梧にも、それまでと変わったことはなかった……と思う。
敢えて言うならば、何時の頃からか、京梧が私のことを、龍斗、ではなく、ひーちゃん、と呼ぶようになった、と言うのがそれに当たるのだろうが、京梧だけでなく、小鈴などもそう呼ぶようになっていたから、少なくとも私には、私と京梧のみの間の何かが変わったと言えるような出来事はなかった、としか今でも思えない。
けれど、暦が過ぎ、時が過ぎ、出来事が過ぎ、となっても、相変わらず、私は京梧の傍らにいるのを好んだし、京梧に構われるのも好んだし。彼に、私を──否、私だけを見て欲しくて、声を、想いを届けて欲しい、と秘かに願い続けるのを止められずにいたのは、決して否めない。
だから、私のそんな想いや願いを、桜の古木が教えてくれた通り、恋、と呼ぶなら。忙しさにかまけて心の奥底に沈めてしまっていただけで、あの頃の私は……、…………いいや、あの頃の私『も』、初夏の頃同様、京梧に恋をしたままだったのだろうけれど。
ああ、私は京梧に恋をしているのだ、と。
この想いを、この心を、恋と呼ぶのだ、と。
世俗にもヒトにも疎い私でも思い定められる出来事も、移り変わりもなくて、唯、私は。
京梧にも、私を諭してくれた桜の古木にも心底申し訳ないが、黒繩翁が見付からぬ所為で持て余してしまっていた焦りにも似た有様を誤摩化す為にも、『幻の平穏』の中、京梧のことを、『答え』を求めるでもなく、ぼんやり……、と考えるのに、自らの心の中の時を割き始めた。
でも、どれ程の時を割いてみても、京梧のことのみを考えてみても、恋のことも、私が京梧に恋をしていると言うことも、どうにも胡乱だった。
或る意味では、もどかしくさえあった。
唯、つらつらと考えてみるだけけで、真に『答え』を求めようとはしていなかったのだから、それも道理なのかも知れぬが。
時諏佐先生が教えてくれる手習いの問題が、後一息なのに解けぬような際に似て、掴めそうなのに掴めない、そんな有様ばかりが続いて………………。
そうこうする内にやって来た、水無月の下旬。
その日も、京梧や雄慶と、何処かに黒繩翁を見掛けた者でもいないかと江戸の町中を歩き回って、内藤新宿に戻った夕刻、腹拵えをしようと、三人で何時もの蕎麦屋に入った。
………………恐らく、僅か半月の間に、私達は真、我知らず、『幻の平穏』に浸り切ってしまっていたのだろう。
この半月の殆どがそうだったように、その時も、私達が語ることと言えば、例の『男』に関することで、蕎麦を手繰り終えた頃には、今日も何も掴めなかったと、皆、溜息ばかりを零してしまったが、私は内心、こういう毎日も悪くはないのではないだろうか、と思っていた。
黒繩翁を探し歩き、徒労に苛まされるのは、辛い、と言えるのかも知れぬが、それでも、こうして顔付き合わせて蕎麦を食し、語らい、一日の終わりを迎えられると言うのは、悪いことではない、と。
何時終わるとも知れぬ、仮初めの平穏であろうとも、京梧や皆と、こうしていられるのなら。
恋しいだとか、愛おしいだとかは、私には能く解らぬけれど、恋しいだの愛おしいだの気にせずとも、京梧と、こうしていられるのなら。
私は、それで……、とも思った。
この毎日が、終わることないように…………、と。
──私が、咄嗟にそんなことを思ってしまったように。
口では四の五のと言いながらも、京梧も雄慶も、満更ではなさそうだった。
甘い考えなのだろう、と雄慶は語ったが。
あの男を斬るだけだ、と京梧は語ったが。
そう告げる二人の口振りは、何処か、遥か遠い先のことを語っているかのようで、きっと二人共に、私と同じ心地でいるのだろう、と私は察して、が、例えそれが私達の心底の願いだったとしても、どうしたって、あの不吉な言葉を流してしまう訳にはいかぬから、龍泉寺に戻る前に、円空様や杏花や支奴に心当たりを尋ねてみようと、私達は蕎麦屋を出、長屋を訪れた。
生憎、杏花も支奴も、朝から留守にしていた様子で、私達が行き会えたのは円空様だけだった。
それでも、円空様にお目に掛かれただけ……、と全くの無駄骨とならずに済んだことに胸撫で下ろしていたら、円空様は、珍しく眉を顰めつつ、胸騒ぎがする、と言うような意のことを仰り始めた。
何やら、良くないことが起こるのではないか、と。
────高野山の阿闍梨である円空様に、そのようなことを言われ、だから私達は、駆ける風に龍泉寺へ戻った。
急く足を進めながら、ふと、空を見上げれば。
良いとは言えぬ色した雲が、何時しか茜色に染まり始めていた空を、疾
……今にも、夕立が来そうだった。