──龍斗──

陽が暮れ切ってしまいそうなことに気付き、不承不承、私は腰を上げた。

蓬莱寺京梧の傍らを去りたくなかったが、帰らぬ訳にはいかなかったから。

「行くのか？」

「ああ」

「そうか」

両手で包むようにしていた茶碗を戻し、ゆっくり立ち上がった私に倣って、彼も席を立った。

入った時のように、私達は肩を並べてその茶屋の暖簾を潜り、往来に出て向き合った。

「……その、蓬ら────」

「──蓬莱寺、そう呼びたくねぇんなら、好きに呼べばいいだろ？」

「………………そうだな。……『京梧』。今日は、有り難う」

店を出ても尚、私は、もう少しだけ彼との話を続けたく、漸う口を動かし、蓬莱寺、と彼を呼ぼうとしたら。彼はそれを遮って、好きに呼べ、と言った。

────茶屋に入ってからずっと、私は彼へ、お前、としか呼び掛けなかった。

どうしても、蓬莱寺、とは呼びたくなくて、かと言って、京梧、と呼ぶのは憚られて、故に、お前、としか言えなかった。

そんな私の逡巡に彼は気付いていたのか、好きに呼べばいいと水を向けてくれ、お陰でやっと、私は心置き無く、京梧、と彼を呼ぶことが出来た。

礼も告げられた。

「俺は、礼なんか言われるようなことはしてねぇだろう？　『龍斗』？」

私が彼を、京梧、と呼んだら、彼も、緋勇でなく、龍斗、と呼んでくれた。

…………彼も又、茶屋にいた間中、私のことを、お前、と呼んでいたから、もしかしたら彼も、私を、緋勇、とは呼びたくなく、けれど、龍斗、とは呼べずにいたのかも知れない。

けれど、彼の許しを得て、私が名で呼んだから、彼も、応えるように名を口にしたのだろう。

……恐らくは、だけれど。

「さ、行こうぜ」

「行く？　何処へ？」

──逢いたくて堪らなかった彼に逢えて、京梧、と呼べて、龍斗、と返して貰えて、だから、その時の私は、これ以上は何も望まない、との心持ちだったのに、京梧は、連れ立って『帰る』ような軽い調子で私を促したので、何処に行くつもりなのだろう？　と私が目を瞬けば。

「お前、餓鬼みたいに、迷子になる癖、あるだろ」

京梧は、口許を軽く持ち上げて、にやり、と笑った。

「…………………………そんなことはない」

突然、鬼道衆の皆にはひた隠しにしている癖を言い当てられて、私はばつが悪くなり、目を泳がせた。

何故、それを京梧に悟られたのかも判らなかった。

「俺の見立てじゃ、家から一歩踏み出したら、そこから既に迷子、って口だな、お前は。だから、『行こうぜ』。そこまで行けば大丈夫って所まで、送ってってやるよ」

だのに京梧は、又、私の左手首を掴んで、有無を言わさず歩き出した。

「何故、判ったのだ？」

「んなことたぁ、お前を見てりゃ判る。俺の後を尾けてた時の、お前を見てりゃな。わざわざ、氣も気配も殺して俺を追い掛けてたってのに、お前、直ぐに『何か』に気を取られて、余所見ばっかしてやがったからな。……忍んで後を尾けてる最中もあんななんだ。普段から、ああなんだろ？　迷わねぇ訳がねぇ」

「……それは、確かにお前の言う通りだが……。……鬼道衆の者達には悟られずに済んでいるのに、何故、お前には判ってしまったのだろう……」

「へーえ……。連中も、案外鈍いな。あんなに、判り易いってのに」

────私が気を取られる『何か』。

……即ち、『皆』の声に応えてしまって、故に道にも迷う、と言うのを、私は京梧にも悟られたくなかったから、何とか誤摩化そうとしたが、通じそうもなく。渋々認め、何故、そう悟れたのかの訳を尋ねれば、彼は、あの僅かの間に、私が『何か』に気を取られてばかりいるから迷子になると察したのだ、と笑いながら教えてくれた。

…………それから。

甲州街道に面する木戸を目指し、私達は、人目に付かぬ路地を選んで歩んだ。

歩みながらされた、京梧の、「そんな質で、今までどうやって出歩いてたんだ？」との問いを躱すのに、私は酷く苦労した。

何とかはなる、との私の曖昧な返答に、京梧が納得してくれなかったから。

けれど、散々迷って疲れ果てる度、そんな私を見兼ねた顔見知りの犬猫が道案内をしてくれる、なとど、打ち明けられよう筈も無く、何とか彼んとかの言い訳を幾つも並べ立て、漸く、京梧が問いを引っ込めてくれた頃、目の前に、目指していた木戸が現れてしまった。

「ここで、いいのか？」

「ああ」

「大丈夫なのか？　未だ、遠いんだろ？　迷わねぇか？」

「ここまで来れば、多分大丈夫だ。……それに……──」

「──ああ、そうだな。…………悪かった。余計な気遣いしちまった。……それじゃな」

この木戸を越えて、一歩、甲州街道に踏み出せば、もう、京梧とこうしていられなくなる。

……そう思ったら、ほんの少しばかり私の心は竦んで、けれど、別れぬ訳にはゆかず。

私のように何処となく別れ難くしていたのに、京梧は、別れを言えぬ私の代わりに、と言わんばかりに別離を告げた。

「…………ああ。それでは」

「……又、な」

「……………………又」

それじゃ、との京梧の言葉を耳に落とし、私よりも彼の方が物分かりが良い……、と自分で自分に呆れつつ、私も又、別離を言えば。

京梧は、少しばかり躊躇って、又、と言ってくれた。

故に、私も。

又、と、約束にもならぬ約束を告げ。

────そこで、私達を繋いでいた、私の左手首を掴んでいた京梧の指先が、するり、と離れた。

月明かりだけが頼りの中、私は一人、街道を進んだ。

辺りは本当に暗く、昨日までは、迷ってばかりの私を見兼ね、道行きに付き合ってくれていた犬猫の姿もなく、私以外の生き物の気配は絶えていたけれど。

そんな道を行く私の足取りは、軽かった。

ずっと、私の手首を掴んでくれていた京梧の温もりが、未だ残っていたから。

『夢』でも、『幻』でもない温もりが。