5.賭の結果 act.2

強い力で掴まれた足首も、本来ならば、かなりの痛みを訴えて来る筈だったが。

鋭利な短刀に貫かれた掌の痛みが、些細な苦痛など、掻き消していた。

ルカが云う通り、これから何をされるのか判らない訳ではなかったし、多大なる嫌悪と憎悪を感じない訳でも無かったが、それでも未だ、意識を遠のかせんばかりの痛みの中で、シュウの思考は辛うじて巡っていた。

僅かに歪めた柳眉の向こうで、相手が何を思い巡らせているのか知らず。

ルカは、シュウの掌から溢れた生暖かい血を、指ですくい取る。

そして、鮮血が滴る程染め上げた指先を、ちらりと見遣った、相手の白い肌の奥へと、埋め込んだ。

慣れぬ刺激に、ぴくりと相手の体が跳ねた。

反射的に逃げようとする腰を押さえて、おざなりに押し広げ。

指先を引いた次の瞬間、ルカは、シュウを蹂躪していた。

掌を抉った刃物が与えてくる痛みとは、又、別種の、身を引き裂かれる、耐え難い苦痛に、白い喉元が仰け反る。

はっきりと身が捩られ、長い黒髪は乱れた。

だが、それでも。

シュウからは、微かな呻き声一つ、洩れる事はなく。

思い出した様な感覚で、眉と目元が時折歪む他は、表情すら、さして変わりはしなかった。

己が流すそれの所為で、辺りに、むっとする様な血臭が漂う中、唯、シュウは苦痛に耐えた。

判っていてやっているのか、いないのか、は、謎だったが。

そんなシュウの態度は、ルカの神経を、檄高させた。

何度も蹂躪し、何度も汚辱を与えた。

それでも。

唇を強く噛み締めたシュウから、呻きが洩れる事は、一度足りとて、無かった。

無理矢理な行為に、慣れないそこが流した血と、否応なしに受け止めた、相手が何度も放った物が、斑になって、脚を伝っても。

嘆きの声すら……彼からは洩れなかった。

「何処までも……可愛げの欠片もない奴だ。男の癖に、男に嬲り者にされて、涙一つ見せんとはな。それとも、この程度の汚辱は、お前にとってはどうと云う事もないか?」

──どれ程、時が過ぎたのか、もう、シュウには判断の付かなくなって来た頃。

漸く体を離し、下らぬ…とルカが呟いた。

「……そんな…事は…お前には関係…ない……。ルカ・ブライ…ト…。それ…とも……娼婦、の様に…乱れる方が好み、か………? なら…そうして、も、いい……が…」

「…お前は、何処まで俺を苛立たせれば気が済む?」

たった今、凌辱した相手にそんな事を言われて、カッと、怒りに任せ、ルカは、両の掌を貫いた短剣に、手を添えた。

その身の重さを預ける様に柄を押せば、鈍い銀色の刀身に、紅の糸を巻きつかせた剣は、嫌な抵抗を見せつつ、更に絨毯の向こうへと潜り込む。

「…は…っ……う…っ……」

一段と深く、凶器が肌を抉って。

初めて、シュウから呻きの様な声が洩れた。

「フン…」

耳にした、その声に些か気分を良くしたのか。

薄く、ルカが笑った。

──物言わぬ人形よりも、動くからくり人形の方が、より、人々の興味を引く。

ルカの笑みは、それと同じ理屈の元に零れた笑みだった。

「詰まらぬ……。何も彼も、所詮はこの程度だ……」

自身の手で、無残に散らした体から離れて。

ルカは、剣を取った。

彼は、飽きたのだ。

シュウを、弄ぶ事に。

「娼婦の様に媚びる事を知っていたら。少なくとも今、死ぬ必要はなかっただろうにな」

……ニタリ。

そんな風に狂皇子は笑った。

剣を抜き、鞘を捨て。

切っ先を、仰け反ったままの白い喉元に当てる。

「中々、楽しかったぞ、貴様」

今生の別れの言葉を告げて。

ルカは、柄を握る手に力を込めた。

だが。

痛みに霞みそうなシュウの眼差しには、それでも未だ、意志があった。

怯える事もなく、媚びる事もなく、嘆く事もなく、恐れる事もない、意志の光。

……その色は、今までその手に掛けて来た、今までこの目で見て来た、死の刹那、絶望の刹那、愚かで弱い人間達が浮かべる瞳の色とは何処までも違って。

これから殺されると云うのに、飄々としていて、怒りの色を見せる事もなくて、唯、得物を手にする自分を、見詰め返すだけのそれ。

──ルカは。

そんなシュウの眼差しを目の当たりにして、決して狂う事のない、人を殺す手許を狂わせた。

喉元を抉る筈だった切っ先が、トスッと軽い音を立てて、敷物の上に刺さる。

シュウは、何も言わない。

瞳の色は、何処までも静かだ。

その穏やかさに、決して気押された訳ではないが。

「…………ぶさけるなっ……」

ルカは、喉の奥から一言だけを絞り出すと、剣を鞘に収めて、大股で天幕を出て行った。

「クラウスっ!クラウスっっ!!」

一人の、将の名前を呼びながら。

残されたシュウは、唯黙って、遠くなりそうな意識を何とか繋ぎ止めながら、暴君の叫びを、彼方で語られているそれの様に、聞いていた。

暫く後に天幕の布が再び上がって、見た事のない青年騎士が姿を現しても、彼はそれを、別世界の出来事であるかの様に、見守るだけだった。

入って来た、恐らく、先程ルカが呼んでいたクラウスと云う名の青年は、敷物の上に横たわるシュウの姿を見下ろして、深い溜息を吐いた。

「困ったものだ……」

そして、独り言を洩らしながら、纏っていたマントを取って、交易商の半身を覆う。

「シュウ殿…ですね。今暫く、耐えて戴けますか」

穏やかな声音でそう告げて、クラウスは掌を貫いた短剣を抜いた。

途端、剣そのものが押し止めていた血が、勢い良く溢れ出す。

慌てずに、懐から彼は、札を一枚取り出した。

両手の傷に白い札を押し付ければ、紋章の魔力を封じ込められた札は、見る見る内に、傷口を癒した。

「跡は残らないとは…思いますが…」

剣を抜いた時に生じたであろう激痛にも、札の癒しにも、微塵も表情を変えず。

ゆっくりと起き上がったシュウに、彼は云う。

「世話を掛けた」

癒しを施してくれた相手に、理不尽な仕打ちをした主と、祖国を同じくする彼を詰るでもなく。

静かに、シュウは、素っ気ない礼を述べた。

「……どう致しまして」

立腹もせずに、クラウスは唯、肩を竦める。

眼前の交易商の考えている事が、クラウスには理解出来なかった。

胸中に驚きと訝しみを彼が過らせている間にも、何時しかシュウは、身支度を整えている。

白いそれの至る処に、鮮やかな血の色が飛ばされている上着の乱れを正して。

何事も無かった様に、彼は立っていた。

「瞬きの魔法を使える者が、この陣にはいます。ラダトまで、お送りしましょう」

そんな姿のシュウを見て。

やれやれ……と、溜息を吐き出しながら。

クラウスは申し出た。

戦争も。人生も。

人心の機微も。

そう、何も彼も。

盤上のゲームと同じ。

先を見通す力があれば。

全ての事は、この掌の上。

自ら生命を投げ出したいと。

そう思う程、何かを悟ってはいないけれど。

まるで、自ら生命を投げ出したいと云わんばかりの、戴けないやり方だった事だけは自覚がある。

『飽きた』のだ。もう。

ゲームが、ゲームである事に。