8.償い act.2
一人、静かに酒を嚥下しながら。
シュウは、何時までも、蛍を見ていた。
夏に降る事のない、けれど夏に降る淡雪にも似た、淡い淡い光。
──又。
子猫が、膝の上で鳴いた。
「戻るか、そろそろ」
顔を上げ、人間の心の機微を理解している様な目をした子猫に、シュウは云う。
何時までも、こうしている訳にも、いかないのだから、と。
だが。
再び猫を抱え、立ち上がった彼の背後で。
何か、異質な気配がした。
獣の気配とも違う。
魔物の気配とも……いや、魔物ではないが……魔の気配。
人知を越えた、『力』の気配が。
突然。
フッッ………と、子猫が、全身の毛を逆立てて怒った。
猫はするりとシュウの腕から抜け出て、トン、と肩に飛び乗り、気配の方向に向けて、小さな牙を剥いた。
「おい……?」
それまでは、小さな気配だったのに、徐々に大きくなり、光さえも洩れ出した『それ』と、彼方を睨み続ける猫とを見比べて、弱冠、彼は戸惑う。
──パンっ!
膨れ上がった光と気配から、ガラスが弾ける様な音がした。
唐突に、光は消え、異質な気配も消え、そこには、今まで存在などし得なかった人間の気配だけが残った。
……瞬きの魔法か。
視界の端で、現れた人影を一瞥して、シュウは判断する。
昨日の今日と云った間合いで、この城に災いが齎されるとは、流石に思ってもいなかったが、こちらの味方には未だ、瞬きの魔法を操れる者がいない以上、現れた人影は、ハイランド──敵国の者の筈。
ひょっとしたら、間者でも送り込んで来たのかも知れない。
捕らえて、上手く利用する事が出来たら、こちらの戦況が又一つ、有利になる。
彼は、そう思って。
逃げる事もせず、気配を殺す事もせず、人影へと振り返った。
人影は、ゆっくりと振り返ったシュウの存在に気付いたのだろう。
歩調を早めて近付いて来た。
大地を踏みしだく音は、とても重い。
甲冑の音だ。
「まさか……」
流石に、愕然と、だが、無表情だけは保って、シュウは、近付いて来た人物に、視線を注ぎ続けた。
その者の身につける甲冑は、闇夜の仄かな明かりの中で浮かび上がる程、強い白だった。
月光を弾く眼差しは、血の様な赤だった。
いや…赤く見えた。
「ルカ……ブライト………────」
逃げなければ。
もう、あの時とは違う。
一歩間違えば、生命を落とす様な駆け引きを、この男とやり合う暇は無い。
この軍に身を投じると決めた以上、あの少年を支えると決めた以上、ここで死ぬ訳にはいかないのだから。
──やって来た男の姿を認めて。
シュウの脳裏には、即座にそんな警報が響いた。
瞬いたそれに答えて、体も後退った。
何の為に彼がここに現れたのかは測り兼ねるが、城内に入れば幾ら彼とは言えども、返り討ちにあうだろう、と。
だが、どうしても、緩慢にしか動かなかったシュウに比べて、ルカの動きは素早かった。
「久しいな」
低い、怒りを露にしている声音で、ルカはシュウに近付き、右の二の腕を強く掴んで引き止める。
「それ程でも」
逃れるのは、難しいかも知れない。
──腕を掴む力の強さに、シュウは逃走を諦めて、にこやかに答えた。
「ハイランドの皇子である貴方が、何故、この様な古城に? 戦勝の祝辞を述べに来たとも思えないが」
「相変わらず、口の減らぬ奴だな。お前に用があって来た。あの時、お前の首を跳ねなかった俺自身への憤りを押さえる為でもあるな」
「……後悔されても遅い。悔恨など先に立たぬ。それにしても、良い度胸だ。一人で乗り込んで来るとは。命日は、自分で決める主義か?」
「傭兵共など、何人束になって掛かって来ようが、物の数ではないわ。俺が死ぬ筈などない。お前の首を落として、俺は帰る」
始まった、言葉の応酬の後。
ルカは、片手で剣を抜いた。
残された手で、未だ、相手の腕を掴んだまま。
「フーーッッッ!」
見知らぬ男がやって来ても、シュウの肩に留まり続けていた子猫がその時、余りにも儚い牙を、剣を掲げたルカに剥いた。
「畜生風情がっ」
細やかなその抵抗が、許せなかったのだろう。
ルカは、シュウの喉元へと向けていた切っ先を、瞬時に子猫へと向けて、振り下ろそうとした。
────何故、そうしたのか。
それは、判らない。
だが、咄嗟にシュウは、小さな猫を胸に抱き抱え、庇う様に、背の半分を晒していた。
そして、やはり、判らない。
判らないが……その姿に何を見たのか。
振り下ろされる筈の凶器が、宙でぴたりと留まった。
「自分の生命を捨ててでも、力ない存在を庇って何になる?」
ゆっくりと剣を降ろして。
未だ、己が生きている事を確かめている風なシュウに、ルカはそう尋ねた。
「知らん。理由などないに等しい。そんな事の理由が判るくらいなら、私は猫を庇ったりなどしない」
「理由など明白だろうが。…弱いから、弱いものを庇う。…それだけだ」
身を呈して庇った猫を抱いたまま向き直った相手に、皇子は吐き捨てた。
「………ルカ・ブライト」
未だ、怒りの炎の灯ったルカの眼差しと、その吐き捨てを真正面から受け止めて。
その時、シュウは静かな声音で、その名を呼んだ。
「貴様は、何を嘆く?」
「何だと……?」
「弱い事を嘆いているのか? 強い事を嘆いているのか? それとも、生きている事を嘆いているのか? 生きている世界を……嘆いているのか?」
「何故っ! 俺が嘆かなくてはいけないっっ!」
静かな静かな、シュウの問い掛けに。
ルカは声を荒らげた。
ガランと剥き身の剣を投げ捨て。
そのまま彼は、シュウの体を、林の中へと押し倒した。
「俺はお前と、禅問答をしにここまでわざわざ来た訳じゃない。……あの時、お前は云ったな? 連中に与すると云う誓いを破る事があったら、その時は俺の好きな様にするといい……と」
「ああ、覚えているが?」
苔むす林の中に倒され、のしかかる男の重みを、又か…と、感慨もなく、認識しながら。
淡々とシュウは答えた。
「なら、どうされても文句は無い筈だ」
「そうだな。………どうぞ、ご自由に。犯されようと殺されようと、文句は云わん」
昂り切った感情を押さえ切れず、華奢な男の体を押さえつけるルカと。
それを挑発する様なシュウ。
二人の押さえた声が、辺りに響いて。
次の瞬間には、絹を裂く、甲高い音が谺した。
火照る男の体温と。
苔と土の冷たさと。
不快感と痛み。
以前よりも更に激しい蹂躪と汚辱。
それを、その身で確かに感じながら。
呻く事もなく、泣く事もなく、微動だにすらせず。
シュウはその時、唯、夜空を見ていた。
夜空を舞う、蛍達の瞬きを、唯、見ていた。
綺麗だな……と。
そう思いながら。
彼が、横たえたままだった身を起こしたのは。
何時しかその腕の中から消えていた子猫が、懸命に彼の頬を撫でた時だった。
軋む体を何とか動かして、シュウは子猫を抱き締める。
蛍を見やっている内に。
何時しか嵐は通り過ぎて。
──切り刻んでも、焼き殺しても足りない貴様を、ひょっとしたら、俺は気に入ったのかも知れん。いや、貴様の体を…だな──。
嵐の最後に、そんな呟きを残したルカの姿も、消えていた。