12.裏切らぬのは、心か体か

目覚めたのは、石の床の上だった。

悲鳴を上げる体の節々を宥め透かして、シュウは起き上がった。

ルカの姿は何処にもなく、窓の外は明るく、時計は、朝を示している。

己が主君を、今日はマチルダへと送り出さなくてはならない、と、手早く室内で入浴を終えて、彼は新しい衣服を纏った。

身支度の途中で片隅の姿見を見たら。

夕べの名残が、肌の上にあって、弱冠、シュウは不快になる。

胃の奥が、ムカムカした。

嘔吐を催す程度には、常識を逸脱した、意に沿わぬ行為を疎ましく思う、人間らしい感情が、自分にも残っていたのかと、妙に感心して、乱れた髪を纏める。

主君である少年が出立するのは、午後一番の筈だから、午前の内に仕事を進めてしまおうと、机に向かい、書類を開いた。

だが、それを邪魔する様に、夕べ、ベッドの下に押し込んだ子猫が、トンと紙の上を占領した。

「…そうか。お前には、朝食が要るか…」

子猫の存在と、その食事を失念していた事を思い出し、悪かった、と、彼は小さな背を撫ぜる。

撫ぜながら……シュウはふと、リッチモンドの報告書を、引き出しから取り出した。

ルカ・ブライト。

ハイランド王国の、第一皇子。

──そんな風に始まるその報告書は、探偵の腕前を肯定する様に、微に入り細に入り、狂皇子の身辺や過去の経歴が、詳細に綴られている。

彼の妹であるジル・ブライトが、未だ幼かった彼と母親であるサラ・ブライトの身に降りかかった痛ましい災難の果てに生まれた、父の判らない子供である事までも。

「判らない…訳じゃない…」

ぱさりと、報告書を放り投げ、シュウは独りごちた。

多感な少年期に、目の前で母を凌辱され、その暴漢達の故郷である、都市同盟をあの男が恨む様になった気持ちは、判らなくもない、と。

皇子の怒りは、恐らくその出来事が源で、母を汚した男達が許せなくて、その想いが高じて、都市同盟の滅亡へと繋がったのであろう事も、推測出来ない訳ではない。

けれど。

本当に、それだけだろうか。

人の想いは、そんなに単純なものだろうか。

昨日、妹の婚約が決まった所為で、あの男は自棄に苛立っていた。

彼の中の想いの何らかが、不幸な出来事によって、この世に生を受けた妹に向けられているのは確かな様だったから、最大限人の道に外れた恋慕を、狂皇子は妹と云う存在に注いでいて、それを叶えられないから、髪と瞳だけが極似している人間に、すり替えと云う名の執着を見せているのだと踏んだのだが…。

どうも、そうでもないらしい。

あの男が、ジル・ブライト、と云う存在に、如何なる想いを抱いているのか、理解出来ない。

そもそも。

正常な神経の人間には、狂人の考えている事など、到底理解出来ないのだろうが……目の前で母を汚された過去を持ち、破壊に走っているのだろう彼が、何故、自分だけは殺さずに、生かしておくのか。

そこからして、理解出来ない。

最大の、ミステリーだ。

「まあ……どうでも良いか…。何がどうなろうと、あの男を排除出来れば、それでいい」

──彼にしては珍しく。

考える事を途中で放棄して。

何処かでミルクでも調達してこようと、部屋を出た。

廊下を歩きながら、揺れる長い黒髪を掻き上げ……ふと、服の袖から顔を覗かせた、腕に残る痣を、シュウは垣間見てしまう。

狂皇子に、渾身の力で掴まれた名残を。

途端。

胃の奥にあったむかつきが、胸へと遡って来るのが、判った。

「感情は殺せても、体は正直と云う事か…?」

廊下を行き交う人々に、嘔吐を催しているのを悟られぬ様、さりげなく口許を押さえながら、シュウは独り言を呟いた。

比べるまでもない程、次元の違うたった一つの目的を果たそうとしているのに。

その為に、体を開いているのに。

そして…それに、何の抵抗も覚えないのに。

体は明らかに、何かを嫌悪している。

あの男に抱かれる事を…自分は嫌悪しているのだろうか。

それとも……自分自身を嫌悪しているのだろうか。

それは、判らない。