1.本陣で
職業柄から来る、習慣なのだろう。
目の前で、出来る限り己の気配を殺しながら、跪き、低い声で語る『影』の報告を、ルカ・ブライトはその時、鼻で笑った。
彼自身にとっても、端から見ても、その笑いは、侮蔑の色を伴ってこそいるものの、確かに細やかなそれだったが、ハイランド皇国に仕える将軍達からでさえも、形振り構わぬ、とも、乱心した、とも言われる今の彼の内面の凶悪さを、滲み出させている笑いだった。
「ラダトの街の交易商人を、な。畜生と同じだけの価値しかない者達でも、追い詰められれば、多少の知恵は廻す、と云う訳か。──だが、所詮は下らぬ浅知恵だ。交易商人になど助勢を求めて、どう戦況が変わると云うのだ?」
──ハイランド皇国の手に落ちた、ジョウストン都市同盟に名を連ねていたサウスウィンドゥ近く。
自軍の本陣に設えた、己の為の椅子に腰掛けて、影の報告に耳を傾けていた彼は、冷たい笑いに続いて、低く、そう言い放った。
──太陽暦四六〇年。
同盟歴では一四七年、ハイランド歴では二二四年に当たる、その年。
ハイランド皇国による、都市同盟への侵略戦争が始まった。
門の紋章戦争、と言われた先の戦争が、赤月帝国の滅亡によって終結を見てより、僅か三年後の事だった。
一度は、和平が結ばれたハイランドと都市同盟の脆い関係を、あっさりと無に帰したのは、ハイランドの皇子、ルカ・ブライト本人である。
彼が何故、奸計を用いてまで戦争の継続を求めたのかは、未だ、誰にも判らぬ事だったが、終わる筈の戦いが、今でも続いている事だけは、確かだった。
ハイランド軍は、同盟軍の盟主の役割を果たしていたミューズ市を陥落させ、デュナン湖の南、サウスウィンドゥまでも、その手に収め。
皇国軍の勢いは止まらず、連帯の弱い都市同盟は、容易くハイランドの物になるのかと、人々は恐れ戦き、日々を過ごしていた。
様々な縁
そして、その時は未だ。
ハイランド軍の全権を握る、ルカでさえも、その存在の重さを、見定める事は出来てはいなかった。
ハイランドに…延いては自分に反旗を翻した、かつて、ネクロード、と云う吸血鬼の為に、無人の廃城とされたノースウィンドゥの城に立て籠もった彼等など、赤子の手を捻るよりも簡単に、潰せると思っていた。
ハイランドの首都、ルルノイエに戻る事もせず、サウスウィンドゥに、大将であるルカ本人が留まっているのも、そんな理由からだった。
だから。
何処までも、蟷螂の斧程度にしか思えぬ彼等の中に、潜り込ませた間者の報告が、彼には馬鹿馬鹿しく思えて仕方なかったのである。
たった今受けた報告によれば。
連中は、圧倒的に不利な状況を打開する為に、ラダトの街にいる、シュウと云う名の交易商に助勢を求めに向かっていると云う。
商人風情にどれ程の加勢が出来るか、など、火を見るよりも明らかな結果が、そこにはあるだろうに。
「ですが、ルカ様」
無駄な報告をするな、と言いたげな皇子に。
跪き、顔を隠した影は食い下がる。
「何だ」
「その、シュウなる人物は、現在でこそ、ラダトで交易商を営んでおりますが、かつては、マッシュ・シルバーバーグの教えを乞うた事もある男とか。噂では、立身出世の為に、師の教えを利用せんとし、マッシュ・シルバーバーグに破門こそされましたが、才覚の上では、彼の弟子の中で一番抜きんでていた、とも言われております。その者が、ミューズの傭兵として雇われていた者達の味方に付く事は、余り、好ましくない事かと…」
聞くだけは、聞いてやる、と片手を振ったルカに、影は報告を続けた。
「………。誰に、そう言われた? キバか? クラウスか? 将の誰が、俺にそう進言せよと、お前に入れ知恵をした?」
報告の中に、忠告に似た言葉を織り混ぜた影に。
ルカは、厳しい顔を向けた。
「それ、は……」
「言い淀むな。貴様の報告は、貴様の仕事の範疇を越え過ぎている。先に報告を聞き及んだ誰かが,俺にそう言えと云ったから、だろうが」
「────クラウス様に、ございます……」
一度、影は、口を開く事を戸惑ったが。
今にも剣の柄を握りそうなルカの剣幕に押されて、小さく、一人の将の名を告げる。
「あいつ、か…。良く出来た男だとは思うが、知恵が巡り過ぎるのだけが、鬱陶しい……。──まあ、いい…。あいつらが、そんな些細な事を懸念して、俺に何かをさせたいのなら、乗ってやらん事もない。キバ親子に、告げてこい。今すぐラダトの街に早馬を飛ばして、交易商をここまで、連行してこい、とな。万に一つも、その男が連中の味方に付いたら、好ましくない事態になると言いたいのだろう? ならば、俺が自ら、そいつの首を飛ばしてやる。それなら、文句はあるまい」
「は、はあ……」
「殺してしまえば、憂う事など、ありはしないからな」
……人を殺す、と云う言葉を。
何処までも暗く、そして、何処までも楽しそうに、ルカは口にした。
この主君にとっては、人の血を見る事が、何者にも代え難い喜びなのだろうか、と、背筋を凍りつかせた間者の脅えなど、微塵も気に留めずに。