6.天地神明
余り思い出したくない経験をしたハイランドの天幕の中で。
憎むべき相手から聞かされた通り。
あれから数日の時が過ぎた後、シュウは、妹弟子アップルの訪問を受けた。
彼女の訪問の理由は────。
だが、シュウは、ルカに告げた様に、数年振りに再会した、実の妹にも等しい彼女の願いを、断る、と云う一言で以て、退けた。
天地神明に誓って、彼等に与する事はない、と。
ルカに告げた言葉の中で、それだけが、本当の事だったから。
夏とは言え、ラダトではそろそろ。
閉めた水門に塞き止められた、滔々と湛えられた川の水に、長い間女子供が浸かるのは堪える時節だ。
果たして、何時になったら諦めるやら、と。
川の水底へと投げた異国の銀貨を、暗闇の中探し続ける三人の姿を、シュウは物陰から、じっと見ていた。
断っても、どんな冷たい言葉で打ちのめしても。
妹弟子も、彼女と一緒にやって来た少年も、少年の姉も、引き下がろうとはしなかった。
戦いに勝つ為に、力を貸して欲しい。
そう、彼等は繰り返した。
馬鹿馬鹿しい…。
異口同音に語る彼等の弁を。
そう、心の内で、シュウは切って捨てる。
戦いに勝つ事。
それは、華々しい事であり、確かに、喜びでもある。
彼等の目的が、例の狂皇子率いるハイランドを倒す、と云う、誠、人の道として正しい思いに発するものであればある程、勝利と云う二文字は、必ずや得なければならないそれなのだろう。
そんな事、幼子にも理解出来る。
だが。
戦いに勝利する為には、それが、如何なる理由で起こるものであっても、そこには絶対に、勝つ為のプロセスが存在する。
自分達の為に、この世の為に、人々の為に、ハイランドの横暴を許しておく訳にはいかないから。
そんな崇高な理由を掲げられる戦いでも、『プロセス』からは逃れられない。
綺麗事だけでは、決して戦を乗り切る事は出来ない、と云う、現実からも。
彼等にはそれが、判っているのだろうか。
戦う事は、血と血を流し合う事だ。
敵にも味方にも、血を流させる事だ。
敵国の者達とは言え、人を殺す呵責に耐えて、傍らで味方が死に逝く悲しみに耐えて、それでも、尚、剣を振るう事が、彼等には出来るのだろうか。
誰かが死ねば。
『誰か』の帰りを待ち詫びる、やはり『誰か』が泣く。
待ち詫びた人が帰らぬ事を嘆く『誰か』が、世を恨む。
それが彼等には、判っているのだろうか。
──そう思うから。
だからシュウは、彼等の嘆願を退けた。
川底に投げる振りをして、手にしていた銀貨を小石にすり替えると云う卑怯な事までしてみせた。
けれど、どうもそれが判っているらしいのに。
妹弟子も少年も少女も、諦めようとはしない。
ひたむきなその姿はまるで、正しいと信じた道なのだから、進むだけなのだと、シュウに語り掛けている様で。
背で纏めた長い黒髪を、緩慢に掻きあげさせる程度の苛立ちを、シュウに与えた。
正しいと信じた道が。
本当は正しくないのかも知れない、と云う恐れが、彼等の背中には微塵も無くて。
若いと云う事はこういう事なのだろうかと、彼は思った。
──きっと、自分は。
あの時ルカに告げた、「天地神明に誓って」と云う言葉を、嘘にしてしまうのだろう…と、そうも考えながら。
style="margin-top:3em;">「もう一度言ってみろ」
かつて、ノースウィンドゥと呼ばれていた古城に出陣させた、ソロン・ジーの隊からの伝令に、ルカは怒りを隠さなかった。
「ノースウィンドゥの古城を陥落せしむる事叶わず……。ソロン・ジー様は、全軍に撤退のご命令をなさいました」
「何故だ? 碌な戦力も持たぬ、高々傭兵集団に、何故、勝てない? 部隊の出し惜しみをした覚えは、俺にはないぞっ!」
ガタリと、彼は大将の為の椅子を撥ね飛ばす勢いで立ち上がって、跪く伝令を、一喝する。
「それが…その………。前線の者の報告では、何でも、今まで、彼等の部隊では見掛けた事のない、黒髪の軍師が奇策を用いたらしいとかで……。歳の頃は二十五・六、傭兵部隊に与している様な…と申しますか、軍人には余り見えぬ優男だったとの事ですが…」
皇子の勢いに怯えながらも、伝令は報告を続けた。
「黒髪…………? まさかとは思うが…あいつ、か…?」
オドオドした伝令の告げる、今まで見た事のない軍師、の風貌に、ルカは瞳を細めた。
そのまま彼は。
一緒に伝令の報告を聞いていた将達の居並ぶ方へと、その凄まじい眼光を向ける。
真正面から、ルカの眼差しを受け止めたクラウスは。
困った様に、だが、飄々と肩を竦めた。
────ラダトの街の交易商人と、余り趣味の良いとは言えぬ戯れを、ルカが起こしてから数日後。
ハイランド軍は、ルカの命令の元に、彼等にしてみたら小うるさい蠅でしかない、ノースウィンドゥの反乱部隊を鎮圧する為に、ソロン・ジー率いる部隊を派遣した。
双方の戦力を計れば。
ソロン・ジーの部隊が負けを喫する事など、決して有り得ぬ事の筈なのに。
蓋を開けてみたら、古城にての攻防戦は、自軍の完敗だった。
それも、新参者の軍師一人に、煮え湯を飲まされた形での敗北である。
前線の兵士が目撃したと云う、黒髪のその軍師に、嫌な形での心当たりがあるだけに、ルカは此度の負け戦が、不快で不快で、仕方なかった。
あの時、躊躇う事なく、あの男の首を落としていたら、こうはならなかったのに、と。
いいや、それよりも。
あの、シュウと名乗った交易商人は。
天地神明に誓って、あの忌ま忌ましい連中には与しない、と云わなかっただろうか。
『自分と同じように』、戦いなど所詮盤上のゲームと同じ、と言って退けたあの男が、嘘を吐いたとはどうしても、思えない。
何も彼もが破壊されていく戦を、ゲームと例えたあの男が、連中に加担する気になったのは、何故なのだ。
──ルカは。
それがどうしても判らなくて。
苛立つ心そのままに、倒れた己の椅子を蹴り上げた。
そう。
所詮は、下らぬ事なのに。
何も彼も……が。