11.餌

待ち詫びていた、だが、嬉しくもない、と云う。

相反する感情を産む『訪れ』が、シュウの元に起こったのは。

グリンヒルの市長代行者であるテレーズと、その付き人であるシンが、リーダーの少年と共に、本拠地へやって来た、数日後だった。

通路を挟んだ隣室で、明日、マチルダ騎士団に同盟の申し入れをする為に旅立つ予定の少年とその姉が、もう、深い眠りの中にいるであろう時間。

固く閉ざした己の部屋の中で、シュウは、何時かの様に、瞬きの魔法が空間の口を開いたのに、気付く。

「お出まし…か…」

と。

机の上の重要書類を手早く隠して、彼は、部屋の片隅で眠る子猫を、ベッドの下へと追いやる。

「懲りる、と云う事を、知らないらしいな」

不可思議な力である魔法が送り届けて来た人物が、己の予想に違わぬ事を確認して。

早速彼は、厭味を舌の上に乗せた。

「何故。別に、生命の危険に晒された訳でも無い。何かを、しくじった訳でもない。何故、俺が懲りなければならん? 判っていないのか? 俺にはお前を自由にする権利があって。お前はそれを承諾した。この城に集った人間達が総出で掛かっても、俺は勝つだけの自信がある。ここを訪れるに、別段、不自由も感じん」

敵の本拠地のど真ん中に、堂々と現れた男は、やはり、ルカ・ブライトだった。

彼は、同盟軍一の切れ者であり、同盟軍一、冷血漢、と陰口を叩かれているシュウの言葉をさらりと交わして、現れた途端、どかりとベッドに腰を下ろした。

「成程…。では、今回の訪問の目的は?」

「云ったろう? それとも、聞こえていなかったのか? 俺は、お前が気に入った、と、そう伝えた筈だが」

「私が、ではなく、私の体が、だと記憶しているがな。悪鬼羅刹が、色道に溺れるとは、私も知らなかった」

「相変わらず、良く回る口だな」

ぽいぽい、と。

身につけていた装備やマントを床の上に脱ぎ捨て軽装になり、腰の剣すら外して傍らに置き、フンと、ルカは、シュウを鼻で笑った。

油断すれば確実に噛み付いてくる相手だが、それでも、自分に勝つだけの武の技量がシュウに無い事を、充分知っているルカの行動だった。

「舐められたものだな、私も」

相手のそんな意図を明確に悟って、シュウは苦笑を洩らす。

「舐められているのは、俺の方だ。何故、再三こうして俺がお前の元を訪れても、今宵の己の運命が判っていても、そうやって、お前は飄々としている? 憎くはないのか? 俺の事が。俺はお前から、厭味を聞かされた事はあっても、恨み辛みを聞かされた記憶だけはない」

馬鹿にされているのは、自分だと。

ルカは、シュウに勝るとも劣らない苦笑を、険しい顔に浮かべた。

「恨み辛み? 聞きたいと云うなら、聴かせてやってもいいぞ? 私とて別に、男に組み敷かれる事に、従順な訳じゃない。だがこれは…言わば、契約の様な関係だ。…天地神明。そう云って誓った己の言葉を、裏切ったのは私だ。誓いを破ったら、何をされても構わない、と云ったのも、私だ。恨み辛みなど吐き出してみても、理不尽極まりない」

「……豚の集団の様な同盟軍の人間の割には、お前は随分、潔い」

「お褒めの言葉と、受け取っておこう。潔い訳ではない。出来ない事を誓った自分を、罵っているだけだ」

──こうやって、顔を合わせる度に。

必ず始まる言葉の応酬は、今宵も、続いた。

「それに。そちらは体だけとは言え、首を繋げておく程度には、私の事を気に入ったのだう? 訪問の態度も、自分のものか、私のものか、その何方の体面を気にしているのかは知らないが、悪鬼羅刹とは思えぬ程、紳士的だ。同盟軍の誰にも悟られぬ配慮の殊勝さは、狂人のそれとは、思えん」

「体面? その様な物、気にしてどうなる? 俺は……。──いや、もう、下らぬ問答はいい。飽きた。それよりも……──

けれど、その夜は。

饒舌なシュウの数々の言葉にも、露骨な態度にも、怒りも露にせず、かと言って、性急に『事』を済まそうとするでもなく。

ルカは、珍しく語尾を濁して、傍らに立つ、シュウを見上げた。

途端、シュウの中に、違和感が生まれた。

眼前の男は、確かに悪鬼羅刹の化身で、化け物と評して、然るべき相手なのに。

瞳を見合わせたその刹那、やけに、『人』に見えた。

「今宵は何か…特別な事…でもお有りか?」

受け止めた違和感が、いたく不思議で。

少し、言葉遣いを、シュウは変えてみた。

「特別…か…。特別、と言えば、特別だ。誠、めでたい。俺のたった一人の妹の、婚約が決まった。…めでたいだろう?」

めでたい事だ、と云いながらも、まるで葬送の列に参加する人間の顔をしている相手を見て、納得がいった、と、胸の中で軍師は、頷いた。

「妹御であらせられる、ジル・ブライト殿は。確か、控え目な印象を与える、長い黒髪の女人でしたな。…狂人が、そんなに妹御を溺愛しているとは…これは又、意外だ。鬼子母神の様に、己が血を、半分でも分けた存在だけは、愛おしいか? ルカ・ブライト」

「………何が言いたい…」

「髪と瞳の色は同じでも。ジル・ブライトと私では、似ても似付かぬ。幻想は所詮、幻想、だ」

「………………。俺は。俺の所有物に、侮辱されても平気でいられる程、寛容な性根ではない」

この男に、これ程までに似つかわしくない表現も無いとは思うが……確かにルカは耳にした、嘲笑交じりのシュウの言葉に、何かを『傷つけ』られた様だった。

カッと、瞳に怒りの炎を灯して。

彼は、シュウを冷たい石の床に引き倒す。

「褥が目の前にあると云うのに……。何処までも、獣染みたやり方が好みの様だな」

「…黙れ……。直ぐにその減らず口が吐き出した言葉を、後悔させてやるっ…」

──派手な音と共に。

その夜も、シュウが纏った布地は、ズタズタに引き裂かれた。

途端、始まる手酷い蹂躪。

何も彼も、何時も通りだ。

汚辱を与えられるシュウの方も。

表情も変えず、声も挙げず、唯、ルカ・ブライトを受け止めていた。

いや、少しだけ…それまでの彼とは、その面差しは違った。

一心不乱に辱めの行為を続けるルカが気付く由も無かったが。

確かにシュウは、怖気立つ行為の最中だと云うのに…薄い、笑みの様な物を湛えていた。

──この身に、人の形をした獣が、誰の面影を重ねていようと、構わない。

別段、この様な事、嘆く価値もない。

この体を、獣が気に入っている、と、そう云うのなら。

精々、餌として、与えてやろうではないか。

溺れてしまえばいい。

同性同士の淫らな行為から、離れられなくなればいい。

夜は長く、幾晩も巡る。

天運が味方すれば。

情事の中で、この獣を葬る機会を、得る事も出来るだろう。

己が体、と云う餌を用いて。

我等が軍が、倒すべき敵将を滅ぼす事が叶うなら、この様な児戯は、安いものだ。

何を犠牲にしても。

どんな手立てを用いても。

例え、盤上のゲームとは言え。

盤上のゲームから、降りられぬ以上。

勝たなければ、意味など、ない…──

──そう、シュウの浮かべた薄い笑みは。

別に、ルカ・ブライトを恨み、そして憎む心の裏返しではなく。

純粋に、この戦争に勝つ為の手段の一つとして、思惑通り、彼が己の体を求める事に対する、満足の証だった。

凌辱を受けようが、慰み物にされようが、恨むつもりも、憎むつもりも、更々ない、と言えば恐らく、嘘にはなるのだろうが……少なくとも、そんな個人的な理由で──例えて言葉にするならば、復讐、の様なそれの為に、己が体を餌にしてまで、狂皇子を殺したいと願う程、シュウは、恨んでいる訳でもなく、憎んでいる訳でもなかった。

全ては。

戦争に勝つ為の、手段の一つなのだ。

戦争、と云う名の、盤上のゲームに勝つ為の。

……敵の大将である男を、その身の中に受け入れながら。

心の底から、シュウは、それだけを考えていた。

戦争に勝つ事。

その為の、手段。

それだけを。

だが。

彼のそんな思考は。

思いがけず、その夜の内に、崩壊を見せ始める事となった。

「ふざけるな……。俺は、高が、髪と目の色が同じと云うだけで、貴様にジルの幻想を抱く程、心が温い男ではないっ…」

三度訪れた嵐の最中、ふとルカが洩らした一言を、きっかけとして。