16.音 act.2

ならば、何故。

──常とは、何処までも違う態度を見せる、今宵の狂人に。

シュウはそう、問い掛けそうになった。

けれど。

薄く開いた唇は、言葉を音にする前に、噤まれてしまう。

聞いては、いけない様な気がして。

彼は言の葉の替わりに、じっと、ルカの面を見詰めた。

……この男は、何かを憎んでいる。

何かを、恨んでいる。

もしも、その憎悪の対象が、たった今、思い描いた物に等しいなら。

聞いてはいけない、その問いは。

もしも、この狂人が、真実憎むそれが、『己自身』だとしたら。

もし、そうなのだとしたら…………────

……シュウは、そう思ったから。

だから、口を噤んだのに。

「初めて、お前に逢った夜」

ルカは何かを、語り始めた。

「お前は、命乞いをしなかった。刃を向ければ豚共は、誰も彼もが、俺の前に跪いてみせて来たと云うのにな。……組み敷かれても。お前の態度は変わらなかった。微塵も、だ。──何故、そんな事が出来るのか。俺は、それが知りたかった」

「ならぱ、納得いくまで、確かめてみるが良かろう? 何をどうされても、文句は云わぬと云ったのは私だ。狂人が、『普通の人間』を真似て、何を躊躇う?」

始まった、ルカの話を止めさせ、一刻も早く、狂人の存在を、この世から抹殺したくて、早口で、シュウは告げた。

「何故……恨もうとしない? 何故、憎もうとしない? 貴様は何故、そうしていられる? 俺には判らぬ。……俺は、恨んだ。憎んだ。全てを変えた出来事も、蛮族も、アガレスも、幼かった俺を庇った母すらも。そして、俺自身も」

だが、ルカは。

語る声を、止めようとはしなかった。

「弱い事は罪悪だ。力だけが、全てだ。強ければ……何も『変わらない』。弱いから誰も彼もが変わり、弱者は、弱者故に、同じ弱者を庇って死ぬ。庇う事も、庇われる事も、そこから生まれいずる『もの』も。罪悪で、蔑みの対象で、僅かばかりの情けを、掛けるしかない、それだけのものだ。だから強くなろうと思った。だから、全てを憎んで。ジルさえも憎んで、そして、哀れんだ。なのに……なのにお前は、顔色一つ変えない。憎む素振りも、恨む素振りを見せない。弱いことは罪悪なのに、弱者の肩を持ち、庇護されるしかない子猫などを庇う。──判らない。俺には、判らぬ」

苦笑だけを零して。

ルカは、ツ……と、シュウの頬を、指先で撫で上げた。

「判らないから、知りたかった。悲劇の前では、誰も彼もが、同じではないのか? 誰も彼もが、俺と同じように、全てを憎むのではないのか? 正義など、決して届かない世界の前では、人など、ひれ伏すしかないのに。お前は、俺と同じにはならないのか?」

頬を撫でる指は、何度も、行きつ戻りつ。

狂人、と例えられた男は、そんな呟きを洩らした。

「……傲慢だな」

シュウは。

そんな言葉だけを、返した。

だが。

頬に沿う手を、払う事だけは、どうしても出来なかった。

自ら、接吻を誘って、口移しで毒を注ぐ事など、今のルカ相手には、容易く遂げられそうなのに、懐に忍ばせた手は、ぴくりとも動かない。

弱い事は罪悪で。

憎むべきは己で。

誰も彼もが同じだと、そう云うルカの言葉に。

繕った世界が壊れる音だけが、聞こえていた。

だから、その夜。

小高い丘の大樹の根元で、何時も通りの行為が果てた後も。

ルカ・ブライトの姿が、消え去った後も。

シュウは、乱れた衣服を正す事もせずに、呆然と、月を見ていた。

月光と、湖畔を漂う、蛍の光だけを見ていた。

「俺は。本当は、お前の様になりたかったのかも、知れない」

そう言い残した、皇王の言葉だけが、耳の中に残っていた。

『お前』の様になりたかったのは、自分なのに。

そんな事を、唯、思って、シュウは。