22.恐らく、正しいのは

わざと、虚無の中に押しやった意識を取り戻してみたら、常の様に、ルカの姿はもう、何処にもなかった。

隠れた筈の子猫が、何時の間にか近くに戻ってきていて。

今宵に限って、ニャアニャアニィニィと鳴き続ける子猫に少しだけ手を焼きながら、服に付いた草を払いつつ、シュウは歩き出す。

痣が残る程掴まれて、傷付けられて、血を流させられて、だが何時しか、無理矢理な行為が齎す、躰の痛みにも慣れていた。

今夜は、髪の乱れも、服の乱れも、それ程酷くはない。

もう二度と、あの男に会わずに済む、その事実が、足取りを複雑なものにはしていたけれど、それでもしっかりと彼は、城へと向かった。

ヒルダの営む宿屋の入り口が見えてきた時、だがその足取りは止まる。

「よう。散歩かい?」

壁に凭れ掛かる様にして、ビクトールとリッチモンドの二人が立っていた。

「たまにはな」

嫌な組み合わせだ、と彼は内心で舌打ちをする。

例の一件から、やけに自分の周りを気にしている探偵と、勘の良さでは同盟軍で一、二を争う傭兵の二人連れは、今は歓迎したくなかった。

だが何故、こんな夜更けに彼等はこんな場所で、何をする訳でもなく、立っているのだろう。

「散歩、ね。まあ、いいさ。あんたがそう云いたいならな」

たまの気分転換だと言いたげなシュウに、リッチモンドは肩を竦めた。

「シュウ。わりぃが、面、貸しな」

ビクトールは強張った顔をして、顎を杓った。

「何故?」

二人の表情、態度、物の言い様に、体の何処からか警報が鳴って、シュウは冷たい視線を彼等へと送る。

「……もういい。真っ向勝負と行こうや。……会ってたんだろ? ルカ・ブライトに。何故だ。何してた。あんな場所で。あんたは、同盟軍の正軍師だろ? まさか、裏切る気か」

冷徹な視線を受けて、遠回しな言い争いは止めだと、そんな彼へと傭兵が畳み掛けた。

「裏切る? 何を勘違いしているのか知らんが。下らない事を云っている暇があったら、そろそろ休んだらどうだ? 明日には盟主も戻って来る」

「下らない? 少なくとも、下らなくはないだろう? 同盟軍の軍師と、ハイランドの皇王が、深夜の森で逢い引きとは、穏やかじゃないからなあ」

傭兵に、ふざけるなと言い捨てた彼に、今度は銜え煙草の探偵が事実を突きつけてきた。

「逢い引き……な。だとしたら、随分と色気の無い逢い引きだな。あれは、唯の契約だ。ハイランドの皇王だとか、同盟軍の軍師だとか云う範疇の外での話だ」

「契約? 何の。……ああ、とにかくどっかで、ちゃんと納得出来る話ってのを聴かせてくれよ。このままじゃ、納得も、信用も出来ない」

それでも、のらりくらりとシュウは二人を交わしていたが。

ここでは埒が明かないと、ビクトールにガッと腕を掴まれた瞬間、くらりとシュウの視界は廻った。

先日から密かに覚えていたむかつきが、ぐっと遡って来る。

想いは殺せても、体は正直だ、と、何時か思った事を、刹那、彼は又思う。

恨んでもいない、憎んでもいない。

なのに。

体は何かに正直だ、と。

ビクトールの腕を振り払い、膝を付いて彼は、堪え切れなくなり、嘔吐した。

「おい。どっか具合でも悪いのか?」

「何でもない」

この二人の前で見せてしまうには、余りも痛過ぎる失態を、どう繕おうかと考えながら、吐くだけ吐いて、シュウは再び、歩き出した。

「ホウアンの所に行った方がいいんじゃないのか?」

「何でもないと言っている。余計な世話だ」

「ばれたらヤバイ病気でも抱えてんのかよ」

「人の話を聞いていないのか? 何でもない」

「何でもないって奴の面にゃ……」

「…………うるさい。地顔だ。悪かったな」

追い縋る二人を振り切る様に、ほつれた髪を掻き上げて、彼は歩く速度を早める。

フカっと、何処か呑気な声を洩らして、又、懐から逃げ出していた子猫が姿を現し、二人の男を威嚇した。

全身の毛を逆立てて子猫は、小さな爪を立て、立ち止まった彼等の体をよじ登ると、小馬鹿にした様に一声だけ鳴き、更には顔面を踏み台にして、シュウの肩に飛び移る。

「…可愛くねえ猫だ。猫の癖に」

「あの、シュウの猫だからねえ……」

散々爪を立てられ、馬鹿にされ、踏み台にされ。

追い掛ける気を削がれて、憮然と男達は溜息を付く。

「……何だと思う? 俺たちゃ、どうしたらいいんだ?」

去っていくシュウの背中を見詰めながら、ビクトールがぼやいた。

「知らないね。出来る事は、考える事だけだ。…ま、あの軍師にゃ適いやしないだろうがな」

同じ背中を見やりながら、リッチモンドは肩を竦めた。

「取り敢えずは……クウラスにも手伝わせて、あいつの事でも見張ってみるか……。このままって訳にゃ、いかないだろうから」

「…同感」

角をふっと曲がって、軍師の姿が消えた後。

彼等は、そう頷き合った。