21.お終いの日
会議の議場に突然姿を現した、トラン共和国の大統領子息だと云う、シーナを仲介役に、トランとの同盟を結ぼうと、同盟軍盟主と数名の仲間達の一行が、本拠地を後にして数日後。
ハイランドがハルモニア神聖国に援軍を求めたらしいと云う情報が、同盟軍に齎された。
その報告に渋い顔をしながら、シュウは、グレッグミンスターを目指した盟主達も、明日辺りには戻って来るだろうから、朝には対策の為の軍議をしなければ……と考えつつ、子猫を連れて、深夜の散策に出た。
意識した訳ではないのだが、人気の途絶えた城の中庭を歩いている内に、足は何時しか、デュナン湖を見渡せる小高い丘へと向かってしまう。
今日も、綺麗に蛍が舞うその場所で。
一本だけ、ぽつんとある巨木に手を掛けながら、何故、あの時、狂皇子を殺す事が出来なかったのだろうかと、彼は思い煩っていた。
あの夜。
お前の様になりたかったのかも知れない、と、何も彼もを恨み、何も彼もを憎んだ男は云った。
でも。
何かを恨める、何かを憎める人間になりたかったのは自分の方なのに……と、そんな事を彼は思う。
恨める。憎める。絶望を感じられる。
それは或る意味、幸せな事だ。
怨嗟からは何も生まれはしないが、少なくともそれは、自身にとっては救いになる。
こんな、戦の絶えない人の世など、怨嗟と怨嗟の絡み合いが、途絶える事なく続いていくのだから、誰かを恨む事も、誰かを憎む事も、特別な事ではないし、どちらかと言えば在り来りで、そう、別段、不思議な事では。
あの男の場合は、その身に抱えた恨みも憎みも、並外れて大きかったから、なまじ、力があったから、その怨嗟を紛らわす為にしてしまった事が、鬼にも劣る非道なそれだっただけの話…………なのだろう。
あの男がした事が、正しいなどとは口が裂けても云えないし、唯の逃避に同情する気は更々ないが。
嘆きたければ、嘆けばいいのだ。
叫びたかったら、叫べばいい。
恨む事も、憎む事も、嘆く事も、叫ぶ事も、出来ないよりは、はるかにマシだ。
絶望を感じられるだけ遥かにマシだ。
怨嗟の咆哮さえ上げる事の出来ない人間にあるのは、感じられる絶望すら、ないのだから。
「だから……私は殺せなかった…と? 羨ましかった、とでも云うのか……?」
つらつらと、身の内を巡った思考に、思わずシュウは独り言を零した。
馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿し過ぎて、反吐が出る。
あんな男が羨ましいだなんて、そんな事がある訳がない。
憎むべき相手だ。
殺すべき相手だ。
唯の敵ではない。
あの男にされた事を、忘れた訳でもないのに。
なのに。
あの男が、私の様になりたかったと、そう云ったから?
この私が、あの男の様になりたいと、何処かで願ったから?
無い物ねだりの、対極に位置するあの男に、哀れみでも感じたと云うのか?
無いものを求めて、ねだって、だから?
そうすれば、何かが埋まるとでも?
………そんな事……幻想なのに。
あの男は何時だって、そう、何時も……────。
「そう。何時も……」
馬鹿馬鹿しい、と斬って捨てた筈の感情が、どうしても捨てきれなくて、考え続ける内、シュウはふと、振り向いた。
直ぐそこに、瞬きの魔法の光が見えた。
「そう……。何時も。何時もだ……。何時も、貴様は」
瞬いて、弾けて、消えた光の中から、フッ……と姿を現した狂人に。
シュウは呟いた。
「何時も、俺が何だと云う?」
呟きを聞き止めた相手は、そう問い掛けながら近付いて来る。
「別に。熱心な事だな。ハルモニアに助勢を求めてまで、同盟軍を潰そうとしている最中に」
それまで、何処か憂いの様なものがあった表情を、一転、仮面の如く塗り替えて、何時も通りの悪態を、シュウは云った。
するりと、抱き抱えていた子猫が、腕の中から逃げ出して、何処へと姿を消す。
「余裕と言え。それにもう、会う事もないだろう。満足か? ハイランドの現状の勢力と、同盟軍の勢力。何方に歩が有るのか、判らぬお前ではあるまい? 近い内に、この城は落ちる。同盟軍は殲滅される。お前の生命も……僅か、だな」
だが、何時もの様に、さらりとそれを交わしてルカは、ツカツカとシュウに歩み寄ると、強く腕を掴んだ。
「その様な事、やって見なければ判らん。死ぬのは、そちらかも知れんぞ。皇王陛下」
「有り得ん。俺は蛮族の全てを滅ぼして、生きたい様に生きる。同盟に与する者など、皆殺しにしてくれる。お前もだ。お前もこの手に、掛けてやる。文句はあるまい? 誓いを破った以上、どうされようと構わないと、何時か云った筈だからな」
掴まれた腕を振り払おうと、シュウは足掻いてみたが、どうやってみても、その力には適わず、選りに選って、敵大将の腕の中に、抱き込まれる結果となる。
「殺したければ、殺せば良いし、慰みにしたければ、そうすればいい。ああ、文句は云わぬ。苦情も言わぬ。そう云う話だった」
けれど。
どうされても何も言わないと、何時か告げた言葉の通り、シュウはもう、抗おうとはしなかった。
唯、感慨もなく、己とルカの周囲を舞う、小さな蛍の群れ達を、その灯を見詰めるだけで。
「お前は俺の所有物だ。腹立たしい人形だ。……お前は何故……何故、最後まで、俺に呪詛の言葉を吐かぬのだ? 戦場で俺を殺す事など不可能なのに。お前の屈辱が晴れる事など有り得ん。だから、憎まれれば、疎まれれば、簡単に……──」
シュウが見詰めるモノが何か、気付いて、ルカは呟きながら、一匹の蛍に手を伸ばした。
「潰す気か?」
相手がどんな人間なのか、知るべくもない蛍が、ふんわりと掌の上に止まったを見遣って、シュウが咎めた。
「だとしたら?」
「……いや、別に。大勢を変える訳でもない存在を潰してみても、益はない。そう言いたかっただけだが」
指図をする気か、と、睨んできた相手に臆する事もなく、ぽつり、余り人情的とは言えぬ台詞を彼が告げれば、何が愉快だったのか、ルカは、クッと笑った。
「それが、本音か……。ああ、そうだな。お前は言っていた。ゲーム、だとな。それがお前の、本音か。漸く、判った様な気がする。詰まらぬ男だ……」
フルっと手を振り払って。
ルカは蛍を追いやった。
留まった時と同じく、ふんわりと逃げて行った光る虫から眼差しを離して彼は、小さく、これが最後だと囁いて、声音の調子とは裏腹に、乱雑な、強い力で、シュウを草の上へと押し倒した。