31.決戦 act.5

皇王は、確かに。

獣よりも、魔物よりも……この世に生きる、全ての存在よりも、尚強い、と。

相対した全ての者が、そう思わざるを得ない程、強くはあった。

しかし。

同盟軍の正軍師が計算した様に、度重なった戦いで傷を負った彼は。

固唾を飲んでその戦いを見守っていた人々が、何時になったら終わるのだろう……と思い始めた頃、がくりと、大地に膝付いた。

「おのれ……。この俺が負ける、などと……っ……。貴様等に、何が出来ると……っ…」

が、それでも、血と脂が纏わり付いた剣を杖とし立ち上がり。

武器を抱え続ける敵達を、ルカは鋭く睨み付けた。

「俺は死なん……。俺の行く手を邪魔する者全て、この地上から消し去るまで……俺は……っ」

──手負いの獣である彼の何処に、そこまでの鋭さと激しさが残っているのか、と。

ルカの眼光に、人々が飲まれたかの様に、立ち竦んだその一瞬。

彼は、敵達に背を向け、ふらりと歩き始めた。

闇の向こうへ、と。

「……ここで逃して堪るかっっ」

森の暗がりの彼方へ、白いルカの背中が消えて程なく。

我を取り戻し、同盟軍の手練達が、その後を追い始める。

見守っていた者達も。

……が。

ルカの後を追う人々の中に、シュウの姿はなかった。

──同盟軍と戦って、それでも生きていた先発隊の者達に、背を守られ。

「ルカ様、早くお逃げ下さいっ!」

「ルカ様、ここは我等がっ!」

「……お早く、ルカ様っっ」

口々に叫ばれる言葉に、感謝も怒りも、感じる事出来ぬまま。

ルカは唯、前に進む事だけを考え、歩き続けた。

何処へ向かえばいいのか、などと云う事には考えも及ばず、又、背後から追い掛けて来る同盟軍の存在が、その選択を許さず、くらい道を辿るしか、術などなく。

歩みを、止めず。

何時しか森を抜けたルカは。

少しばかり広くなった道の行き止まりで、漸く、佇む事を思い出した。

木々の茂みが切れたそこは、天を見上げれば天の河を眺められ、正面にある大木の向こうには、デュナン湖の湖面が臨め。

「ここ……は……。そう、か…………」

この場所が如何なる場所なのかをも思い出し、クッ……と、喉の奥で、彼は笑った。

『あの男』を、幾度か組み敷いた場所だ、と。

『最後の夜』を、過ごした場所だ、と。

記憶の襞に教えられ、又一歩、彼は踏み出す。

もう、同盟軍の城の灯りが間近に迫るこの場所で、彼と……と。

「こんな、所で……」

眼前の大木を目指し、足を進め。

くらりと天地が歪むのを感じ。

ルカは軽く、頭を振った。

形ある幸福……と云うものを、尽く壊していった蛮族を滅ぼす為の戦いに身を投じてより。

眩暈など、感じた事は一度足りとて、なかった。

流れ続ける己が血が、体の温もりを奪って行くのも、初めて知る感覚だった。

未だ、季節は夏である筈なのに、ふるりと震えたくなる程、寒くて。

心細い、そんな感情さえ浮かんで。

この場所に残る思い出に、縋りたくさえなり。

「……これが……恐怖だと云うのなら……。──この俺が、死を恐れているとでも云うのか……。死など……恐れるに足らぬのに……」

目の前の大木に、彼は片手を付く。

「馬鹿馬鹿しい。下らぬ感情なぞ……。──ん?」

──この世から、己と云う存在が消え去る事、それは、恐れるに足らぬ事、とルカは、きつく面を持ち上げ。

ふと。

凭れた大樹の小さな枝に、何かが下がっているのを見付けた。

「これは……。何故、この様な所に、こんなものが……」

彼の目に止まった物、それは、木彫りのお守りだった。

何故それがそこにあるのか、知る由などルカにはなかったが……余り精巧とは言えぬ装飾の施されたそれは、確かにそこに有り、きちんと閉められてはいるが、何処か隙間の有る蓋と、装飾の彫りの間から、淡い光──しかも、何処か見覚えのある光、が洩れていたのに興味を覚え、彼はそれを取り上げる。

「これは……螢……」

……己の首を落とすべく、追手が掛かっているなどとは到底信じれぬ静寂の中で、ルカは、そっ……と、手にしたそれの蓋を開いた。

蓋を滑らせてやればそこからは、閉じ込められていた小さな光が一つ、ふわりと舞い上がって、僅か唖然……と、彼は光を目で追う。

「子供の悪戯、か……? 詰まらん。叩き潰して…………──

立ち上った光の正体が、淡く輝く昆虫だと知り、ルカはそれを握り潰さんと、手を伸ばしたが。

あの男──シュウとの『お終いの日』を過ごしたこの場所で、やはり、舞っていた螢を潰そうとした刹那、大勢を変える訳でもない存在を潰してみても、益はない……と、シュウに云われた台詞を思い出して、彼は思い留まる。

「高が虫ケラに、奪う程の価値ある命もない……か……」

あの男の云っていた事は、そう云う意味だった筈だ……と、力なく呟いて、ルカは伸ばした手を降ろした。

──手にした物の中からは、いまだ光が洩れている。

中途半端に滑らせた蓋を、一息に全て開いて地面へと落とせば、閉じ込められていた螢達が、一斉に闇夜へと舞い。

「下らん、な。……あの男も、詰まらぬ男、だった……。俺も……この世界、も……──

散って行く光達を瞳に捕えながら、小さく、彼は呟き。

その呟きが消え去ろうとした瞬間。

夜の闇と、静寂を撃ち破る、切り裂きの音が響いて。

彼は全身に、矢を受けた。

「うっ……。何……?」

呆然と、突き刺さった数多の矢と、それを受け止めた自らの体を見下ろし。

闇と静寂を裂いた凶器の放たれたろう方角へと向き直り。

ルカはそこに、散歩をしているかの様な足取りで、自分へと近付いて来るシュウの姿を見て。

「忘れていた……。そうだな。久しく逢わぬ内に、忘れていた。お前は、俺の、同類、だったな……」

己の迂闊さを罵る様な、苦笑を浮かべ。

「これで終わりだ、ルカ・ブライトっ!」

この時を待っていたのだろう、計った様に姿見せた同盟軍の戦士達の声も。

「ルカ様、どうかお逃げ下さいっっ」

戦士達の後を追い、姿見せた己が兵士達が、再び放たれた矢に、己を庇いつつ倒れるのも。

彼方の世界の出来事の如く、遠くへと流して。

「……俺の…邪魔をするなっ! クズ共がっ……」

螢が飛び立ち、空になった木彫りのお守りを大地へと打ち捨て。

彼は再び、剣を構えた。