33.盟主の『頼み』
ゆっくりと。
世界の流れとは、動きを切り離してしまった風に。
盟主に伐たれたルカ・ブライトの体が、激しい音を立てて大地に崩れても。
何時しか、割れんばかりの勝鬨が上がっても。
彼──シュウは、動く事が出来ずにいた。
『大敵』だった筈の男目掛けて、矢を放たせる寸前。
ぼんやりと目にした光る螢の輪と、たった今、倒れ伏した男の姿だけが、瞳の中にあって……。
動く事も出来ず。
動こうとも思えず。
うっすらと、この後の事を考えながら。
世界が空回りしていくのだけを、彼は感じていたが。
「……ウさん。……シュウさんっ」
今宵の戦勝を祝う為、又、疲れを癒す為、本拠地へと戻り始めた人々に取り囲まれていた筈の、盟主の少年に耳元で囁かれて、やっとシュウは、我に返った。
「……ああ…。何…か…?」
常の様な覇気を、声に持たせる事も出来ず、らしくない辿々しい喋り方で、シュウは少年を見下ろす。
「あのね。一寸、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「うん。僕、このまま一旦、城に戻るけど。シュウさん、ここにいてくれないかな」
何処か焦点の合わぬ目線で見遣って来る軍師を見上げ、少年は小声で、だがはっきりと頼みを告げた。
「それは……構いませんが……何故?」
「いいから。──あ、それでね、後で僕、倒れた振りして抜け出してくるから。どんな報告聴いても、動かないで待っててね。直ぐ、戻って来るから」
「……貴方が…そう仰るならば……」
何故、少年は、そんな頼みをするのだろうと。
シュウは一瞬、訝しんだが。
崇めた盟主の瞳は、紛う事なく真剣そのものだったし、何より彼の命とあれば、従うのがシュウの本分だったから。
軽く頷いて彼は、頼みとやらを告げ終え、本拠地へと続く夜道を駆け出した少年の後ろ姿を見送り、胡乱な表情のまま、近場の岩に腰掛けた。
腰を降ろした岩から、少し離れた所に転がる、ルカの亡骸を、ぼう…っと眺めながら。
「ホウアン先生」
城へと戻る道すがら。
今宵の決戦にも、軍医として同道していたホウアンを見付け、少年は、医師の服の裾を引いた。
「はい? 何ですか?」
立ち止まり、振り返り、ホウアンは穏やかな笑みを湛え、少年を見る。
「一寸ね、お願いがあるんですけど」
にっこりと微笑みながら、盟主が話し易い様にと、僅か身を屈めた医師の耳元で。
こそこそと、少年は何事かを囁き。
「はあ……。いいですけども……」
「宜しくお願いしますね」
囁かれた内容を聴き終え、不思議そうな顔を作ったホウアンに念押しをすると幼い盟主は再び、誰かを探し求めて、駆けて行った。
「ビクトールさんっ」
ホウアンの元から離れ。
本拠地に戻る一団の、先頭を歩いていた傭兵を見付けて、少年は、ドン、と体当たりする様に、その背を叩いた。
「おー。お疲れさん。……疲れたろう。早く戻って、休もうぜ」
衝撃に、一瞬だけ仰け反り、背を叩いたのが彼と知るや、ビクトールはニカっとした笑いを浮かべ、今宵の立て役者の頭を、ガシガシと撫で始める。
「うん。ビクトールさんも、お疲れさま。……でね。あの……疲れてるとこ、御免なさい、なんだけど……──」
「ん? どうしたよ」
何時もの様に、年の離れた弟か何かをあしらう風なビクトールに、ぷっと、盟主は膨れてみせて、瞬く間に表情を変え。
先程ホウアンにそうした様に、傭兵の耳元でも、何事かを囁いた。
「……駄目?」
「……いや、そりゃ、構わねえが……。又、何で?」
「どうしても」
「判った、判った。んじゃあ、後でな」
──やはり。
シュウがそうだった様に、ホウアンがそうだった様に、盟主に告げられた事に、ビクトールも又、怪訝そうな色を見せたが、最終的には彼も同意の頷きを返したから。
「じゃあ、後でね。絶対だからねっ」
幼き盟主は、力一杯に告げて、駆け出し、本拠地の正門を潜り。
勝利の歓喜に湧く人々の出迎えを受け……そのまま、『倒れた』。
盟主が本拠地へと引き返してより過ぎた時間が。
五分なのか、数時間なのか、把握する事も出来ず、把握する気もなく。
ぼんやり、と。
静寂が戻った戦場に、何時しか姿を見せ始めた螢達が舞う姿を、シュウは眺めていた。
闇に数多舞う、光る螢の輪。
それを唯、彼は見続けて。
光る、螢達の輪の中に。
もしかしたら、あの男の魂も混じっているのではないか……と、滅多な事では揺らぎを見せない感情に、さざ波を立てていた。
「……何だぁ? シュウ、お前もあいつに呼ばれた口か?」
だが、胸の中に立ってしまった、如何なる質のそれなのか、計る事さえ難しい『さざ波』を、打ち消すかの様に。
螢と、ルカの亡骸を見続けるシュウの背後にて、ビクトールの声がした。
「…呼ばれた口?」
今頃は、祝いの宴に興じていると信じて疑わなかった傭兵の登場を受け、シュウは現実に引き戻される。
口振りから、ビクトールがここへ舞い戻って来た理由は、苦痛だけを産み出すこの場所に居続けろと命じた盟主にあるのだと、彼は知った。
「……? そうじゃないのか?」
現実に戻ってきはしたが、未だに何処か、焦点の合わぬ瞳を見せるシュウに、ビクトールは不審を寄せる。
「いや……。ここにいてくれ、と云われたから、そうしているだけだが……。直ぐに戻って来るから、と」
「ああ、やっぱりそうか。俺も、あいつに頼まれたんだ。城に戻ったら、こっそり抜け出して、ここに来て欲しい、ってな。何を考えてるのか知らないが……まあ、あいつの云う事だから…」
「そうだな……」
「何か、大切な話でもあるのかねえ?」
だが、シュウの口から語れらた、ここにいる理由が、己のそれと同一であると知ってビクトールは、直ぐに不審を引っ込めて、シュウと並んで座り、肩を竦めた。
「さあな」
傭兵の仕種が移った訳ではないだろうが、シュウも又、ビクトールと同じ様に肩を竦めて。
「ごめーーんーー」
どうしたものかと、彼等が揃って、煌々と明かりの灯る本拠地を振り返った時。
夜道の向こうから、小さな盟主が、ホウアンを伴って、姿を現した。