カナタとセツナ ルカとシュウの物語
『大切な世界』
厳しい目をして、慣れた手付きで書類を捲る、デュナン国の宰相となって久しいシュウを見遣りながら。
「……最近、随分と、その……柔らかくなられましたねえ、シュウ殿」
やはり、この国の臣下として湖畔の古城に残っているクラウスが、ぽつり、呟いた。
「あ……。すみません……」
が、思わず呟かずにはいられなかったのだろうクラウスの台詞が耳に届いた途端、睨み付けるような視線になったシュウに射抜かれて、慌てて彼は、頭を下げた。
「執務の最中に、無駄口を叩くな。国王陛下に出奔されて、上を下への大騒ぎなんだからな」
口を動かしている暇があったら、手を動かせ、と、クラウスを睨んだ眼差しを、再び書類の上へと落として、シュウは云った。
「申し訳有りませんでした。……ですが、国王陛下なら、又その内にひょっこりと、顔を出しに戻って来られますよ」
「……そうだろうな」
「ええ。いなくなられる前日、又ねー、と仰って、お部屋に戻って行かれましたから」
「全く……。あの方達にも困ったものだ。振り回され通しで。──処で、クラウス?」
無駄話は無用だと、そう云ってやった側から、今は何処の空の下にいるのか判らない、不可思議な少年達のことを語ったクラウスを、書類を捲る手を休めて、シュウは呼ぶ。
「何でしょう?」
「私はそんなに、柔らかくなったか?」
────デュナン湖畔に佇む古城の、宰相執務室。
その部屋に射し込んで来る、昼下がりの陽光と、そのまろやかな光を背に負うシュウが、尋ねて来たことに。
「御自身が一番、お判りの事でしょう? その、訳も」
クラウスはにこり微笑み、開かれた窓の向こうへ眼差しをくれた。
キュオン、と鳴いた、グリフォンのフェザーに、ほら、と餌を与えながら、フン……とルカは、溜息を付いた。
それは、どうして自分が動物の世話などに勤しまなければならないのだろう、と云った意味合いの溜息で。
フェザーの最も好む場所である屋上までルカを探しに来たが故に、その光景に出会してしまったキバは、思わず笑いを噛み殺した。
「…キバ。何が云いたい」
己の背後を取った気配に気付いて、その気配が笑いを堪えた事にも気付いて、ムッとした声をルカは絞る。
「失礼致しました、ルカ様。一寸、御相談が」
ギッ……とした睨みの視線……が、決して、彼が昔良く見せた、人を食い殺しそうな睨みではないそれに、コホンとキバは咳払いを一つして、彼に近付いた。
「何だ」
「元・ハイランド領内へ配る、警備の手配に関してなのですが……」
フェザーの視線の高さまで、身を屈めていたルカに倣い、老将軍も又背を丸め、用向きを語り始めた。
──あの戦争で生き残って、戦争が終わって。
キバは息子のクラウスと共に、新たに建ったデュナン国の将軍としての日々を送っている。
そんな生活を始めて、三年が経って、何処へと消えてしまっていたのに、ふらりと帰って来たルカを、キバは、立場上は己の部下という扱いで、配下に置いた。
とは云っても、老将軍の言葉遣い、態度を見聞きすれば瞭然であるように、実際のルカの扱いは、そのようなものではなく、遠い北にあるマチルダ地区を治めている、元・騎士団長達同様、ルカはキバと共に、この新国の軍務に関わる将の一人として、城にての時間を過ごしている。
さて、では何故、そのような扱いをされると決まった『将』の一人が、手ずからフェザーの世話を焼いているのかと云えば。
『ここに帰って来ても、やる事なかったら暇でしょー? だから、僕がやってたフェザーの世話、ルカさんの仕事にして残してくからねー』
……と云う、何とも感想の告げ難い書簡を、消えてしまった国王陛下が、ルカに宛てて残していたからであって。
「地区は何処だ?」
「ルルノイエの北、サジャの村近辺ですな」
「サジャ、な。……ならば…………──」
己の膝元だった土地の警備に関する話をキバとしながら、ルカは律儀に、残された手紙に認められていたことを守るべく、フェザーを構う手を止めなかった。
「──……と、俺は思うが」
「…成程。では、そう致しましょう。それならば、シュウ宰相も納得して下さるでしょうしな。──判っていたことですが、中々難儀ですな、あの宰相の納得いくように、全ての手配を整えるのは」
「あれもきつい男だからな」
「……シュウ殿も、ルカ様には云われたくないと思いますが……」
漸く、フェザーとの戯れを終え、立ち上がりながら、話題に出た宰相のことを思い浮かべ、やれやれ、とルカは云う。
ルカのそのさまを、今度こそ声に出してキバは笑った。
「どう云う意味だ」
「何、他意は有りませぬよ」
嬉しそうに笑うキバを、もう一度ルカはきつく睨むも、老将軍は唯、好々爺の微笑みを湛えるだけで。
「戦争中からあれは、きつい男だっただろうが。俺は、事実を述べただけに過ぎん」
ルカの口調はらしくもなく、拗ねたようなものになり。
「まあ、それは認めますが。でも、シュウ殿は最近、随分と丸くなられました」
シュウのことを語るキバの口調は、柔らかくなった。
「そうか」
「尤も。それも、ルカ様がここにお戻りになられてから、ですがな」
「…………そうか」
「ええ。ルカ様がお帰りになって、そろそろ数週間。……何やら、シュウ殿は何処か、お幸せそうに、見受けられますなあ」
「……俺には、判らん」
──キバが、やんわりと告げるその言葉達より。
ルカは、ふいっと眼差しを逸らして、屋上を去るべく、歩み出した。
昼間、屋上にてキバが云っていたように。
三年振りにこの城へとルカが舞い戻ってより、もう、数週間が過ぎていた。
が、その数週間は、のんびりと再会の余韻に浸る間もなく、国王が出奔──しかも、何処ぞの英雄と共に、らしい──してしまったが為、宰相を務めるシュウも、古城に顔を出した途端、キバやクラウス、そして何故かこの古城にいた、クルガンやシードに捕まって、人材不足だからと、軍の要職の一つを任される格好になってしまったルカも、様々なことに忙殺されるだけの日々だった。
互い、語り合いたいことが、なかった訳ではないけれど、彼等の『始まり』が始まりだし、戦争中の経緯もあるし、過去のこと──特にルカの──もあったし。
何より彼等は、愛していると、言葉にして告げ合った訳ではなかったので。
執務の最中に顔を合わせること、その延長で語ること、それのみで、これまでの彼等は『満足』を覚えていた。
ふと顔を巡らせば視界の中に『あれ』が入る。
それだけで、幸せのような気がして。
改めて、などと云う想いは、彼等の中には中々、湧きはしなかったのだけれど。
シュウはクラウスに、ルカはキバに。
シュウと云う男の纏う雰囲気が、この頃、殊の外柔らかい、と聞かされた為か、はたまた、たまたま、時間が空いた為か。
その夜。
あの戦争中の頃のように、何をするでもなく、自室で、もう子猫とは言えなくなってしまった愛猫を抱いて、ぼんやりとしていたシュウを、唐突にルカが訪れる、と云う形で、二人きりの時間が、やって来て。
なのに、何を語るでもなく、酒を酌み交わすでもなく、シュウはベットの上に、ルカは、執務机の上に腰掛け、時々、流した視線の先で、相手の様子を窺いながら、沈黙を保つのみ、の時を過ごし。