「お前とこうしているのも、随分と久しいな……」

散歩に出掛けたい風な素振りを見せ、膝の上の猫が、トンと床に降り立ったのを見計らって、漸くシュウが、『口火』を切った。

「三年と、数ヶ月振りだ」

感慨に浸るでもなく、素っ気無い感じでルカが答えた。

「もう……帰っては来ないと思っていた」

淡々と語るルカに。

シュウは一瞬、遠い目を見せた。

──もう、帰って来ないと思った。

告げられたシュウの言葉に、ルカは軽い驚きを表す。

「何故?」

「何となく、だ。世界は広く、『楽しい』ものだからな」

「確かにな。世界は広く、楽しく、だが……世界そのものを、俺は大切には思えなかった。何故、世界が大切か。それくらいの答えは、あの戦争の終わり、掴めたつもりだし、俺がそれを知ったのを、お前は判っていると思ったが」

「……ほう。それは『知らなかった』。────本当に…何となく、お前は帰って来ないのだと思っていた。もう二度と、生きては会えぬのだと、思っていた。だから……あの猫に、お前の名前を付けたくらいだ。せめて、名前くらいは、覚えておいてやろうと思ってな……」

帰って来ない筈がないのを、お前も知っていただろう? と。

その刹那、内に過ったろう感情を見せずに云ったルカに、シュウは肩を竦め、窓から出ていった猫を指差し、あれに『ルカ』と名付けたのだと、告白する。

「俺は、畜生と同等か?」

「人と猫に、どれだけの差がある?」

猫に己の名を冠されて、流石にルカは、ムッとしたようだった。

が、シュウの答えは、以前のルカであるならば、確実に苛立つようなそれで。

しかし、ルカは機嫌を損ねることもなく、にやりと笑って、腰掛けていた執務机を離れ、シュウの傍らに添った。

「差など、ないか。そうかも知れんな。この三年、常にお前の傍にいただけ、あの猫の方が、俺より遥かにマシなのかも知れん」

「自惚れを聞かされたくて、そう云った訳じゃない」

「……そうか? ならば何故、あの猫に俺の名を付けた?」

「………………お前の名前くらいは、覚えていたかっただけだ……」

猫に、ルカと名付けた理由、その向こうにあるものを汲み取って、ルカが笑い続けるから。

シュウは面を伏せてしまう。

「今更、あの猫の名を変えろ、とは云わんが。──云った筈だ。俺はお前の傍にいる。そう決めた、と」

有らぬ方を向いてしまったシュウの頤に手を掛け、少し無理矢理に上向かせ、視線をも合わせ。

ルカは、柔らかい光を宿した瞳で、シュウを見詰めた。

「この世界そのものなど、大切なものには思えなかった。お前が大切だから、お前の住まう世界も大切に思えるだけで。唯、それだけだった、世界、など。──だから、シュウ」

「……何だ」

見詰めて来るルカに、無愛想にシュウは云った。

「口付けても、許してくれるか?」

三年が経っても、二人でこうしている久し振りの時間の中でも、何処までもつれない想い人に、苦笑も洩らさずルカは尋ねた。

「…問うて、許しを請わなければ出来ないものでもあるまい?」

苦い笑いを零したのは、シュウの方だった。

──ゆっくりと、瞼を伏せた想い人の、長い黒髪を掻き上げながら。

『あの頃』、無理矢理に躰を合わせても、決して触れ合わせることのなかった、柔らかい唇に。

そっとルカは、己がそれを、重ねた。

灯りも落とされぬ部屋で。

接吻くちづけをされたまま、シュウはルカに、ベッドへと押し倒された。

それは、以前のような乱暴な動きではなくて。

唯、横たえる、それだけのもので。

貪る接吻を受けながら、シュウは従順に、それに応じた。

──しかし。

「……どうした」

片手でシュウの背を抱いたまま、衣装の合わせを弄ったルカの利き手に、シュウはビクリと、身を震わせてしまい。

眉を顰めてルカは、蠢きを止める。

何に怯えた? と云う彼の問いに、シュウは唯、首を振ってみせたけれども。

「あの頃のことを忘れて、今一度、俺に抱かれろ、と云うのは、無理な話かも知れんな……」

すっとルカは、シュウの胸許から腕を引いた。

「…ルカ……」

遠退いていこうとしたルカの腕を、シュウの左手が押さえた。

右手は、逃げて行くなと、ルカの背に廻った。

「もう……無理矢理、お前を抱こうとは思わん…」

伸ばされたシュウの腕を、ルカは、『労り』なのだと思ったが。

背に廻った腕は、何時しかルカの項辺りに辿り着き、指先が、首筋をツ……となぞるように動いて、促されるままこうべを垂れた彼と、シュウは自ら唇を合わせた。

「愛している」

シュウより施された、彼等の生涯二度目の接吻が終わった時。

ルカは、想い人へとそう囁いて。

服の合わせ目から覗く、シュウの白い肌に、指先と舌を這わせた。

己の所為だと、良く判ってはいたが。

ルカの記憶の中に眠るシュウの痴態は、痴態ですらなかった。

無理矢理に暴いた肌を、散々に弄んで嬲って、痛めつけるような手酷いやり方で、何度躰を貫いても、呻きも啜り泣きも洩らさず、唯、シュウはそれを受け止めていた。

薄く開いた瞳で、何処か、遠くを見ているような佇まいだった。

幾度、蹂躙を繰り返しても、そのさまは変わらず。

気がつけば最後に、静かに意識を手放していた。

闇の中に篭って、薄い瞼さえ開こうとしない、シュウの青白い顔を眺める度、もっとこの男を……と、ルカは何度、思ったことだろう。

殺してやりたいような、連れ去ってしまいたいような。

何度、そんな風に、ルカは考えたことか。

犯しても、犯しても、何一つも変えないシュウ。

心の揺らめき一つ、見せなかった彼。

そんなシュウに、幾度となくルカは苛立った。

何とかして、この男を叫ばせてみたいと思った。

けれど、嬌声など、シュウが聞かせてくれたことは一度足りともなくて。

まるで、人形のようでさえあったのに。

────なのに。

今、ルカがシュウに与えているものは、あの頃のような苛烈さがない代わりに、優しい行いで、優しいが故に、鮮烈ではないのに。

さわりと、ルカの指先がシュウの肌の上で軽くなぞるだけで、その度、シュウはギュっと瞼を瞑り、唇を噛み締め、その指先は強く、敷き布を掻き握る。

何故と問いたくて、そんなに強く噛み締めたら唇が傷付くと云いたくて、逃れようとせずに声を放てと命じたくて、色をくしたその指先を、この体へ……と願いたくて。

だがルカは、思いの何一つ、口にはせずに。

シュウの、頬に、首筋に、絡み付く長い黒髪を、無言で掻き上げた。

「耐えずとも……」

──良い、と云う呟きの最後を、舌先で掠れさせて、ルカは、高く担ぎ上げたシュウの足先を口に含む。

濡れた刺激に身を捩ったシュウの態度に気分を良くし、擡げた想い人の欲をあからさまに弄んだら、白い首筋が仰け反った。

「……っ……」

低く。

堪えた声が、シュウから放たれた。

「…止めっ……。あ………んっ……」

泣き声に近い嬌声めいたものを、続けざまに彼は放ち、女が喘ぐような言葉を自らが放ったことに、悔しそうな色を浮かべる。

「いや……だ……」

震える瞼を何とか開いて、口許を揺らがせ、シュウは拒絶を吐いた。

「何がだ」

むずかる躰を大きく割り広げ、ルカは『奥』へと続く入り口を撫で上げる。

「…認めた……く……な……──。……う……。──ああっ……」

シュウの口に含ませて湿らせた指先を、ルカが『奥』へと進めれば、少しだけ高い声が、室内に響いた。

「認めたくない?」

「も…う……っ。……も……お前…の前、で……何…も…堪え…られない自分……なん、て……っ。認めた……く……っ。──あ…ああ……ルカ……ルカ……っ……」

固く瞼を瞑り、きつく唇を噛み締め、強く敷き布を握り。

『何を』耐えていたのか、堪えていたのか、それをシュウは告げて。

中を掻き乱すルカの指に悶えを見せ、その名を呼んで。

温度をなくすまで掴んでいた布より、その腕を分ち、想い人のこうべを、彼は抱いた。

────三年と数ヶ月の間。

何者にも開かれることなかったシュウの躰は、どれだけ愛を与えてやっても、解しきれてはくれない風だったけれど。

きっと、あの頃も、心の何処かでそう想っていただろうように。

決して伸ばされることのなかったシュウの腕が、己を抱いたのだと知った時。

ルカは初めて、心の底より沸き上がる、『一つになりたい』と云う渇望を覚え。

「……シュウ…」

掻き抱いた人の名を呼び、少しでも安らげるならと唇を吸い、そうしてシュウに、己が身を沈めた。

──あ……。ああっっ! …あ……」

……部屋の灯りは、未だ煌々と瞬いたままあり。

夜の散歩に勤しむ為に、ルカと云う名の猫が、するりと抜けていける程度、窓は細く開かれているのに。

一際高い、艶のある叫びが、シュウから放たれた。

穿たれた痛み故か、結ばれた喜び故か、そのどちらとも付かない、涙のようなものが、シュウの瞳から零れる。

「…おい……?」

見下ろした想い人の頬を伝ったそれに、どきりとルカは狼狽えたが。

少しばかり、苛みを堪えているように顔を歪めつつ、それでもシュウは微笑みを湛え。

「……愛し……て……──

ルカへと伸ばした腕に、僅か力を込めた。

あの頃のように。

ふっ……と意識を失い掛けた人に、接吻の雨を降らせた覚えは有る。

その後、眠るように弛緩してしまった想い人を眺めながら、己も目を閉じた覚えも。

しかし。

確かに、腕に抱いた覚えもあるが、何があろうと離さぬと、子供が玩具を抱き締める風に、強く掻き抱いた記憶まではなくて。

「苦しい」

一足早く目覚めたらしいシュウに、目覚めの第一声にしては色気のない言葉を告げられて、ルカは閉口した。

「折角の朝なのだ、もう少し、色香のあることは言えんのか?」

「……期待するな」

渋い顔をして咎めて来たルカに対する、シュウの態度は何処までも素っ気なかった。

腕の力を緩めた彼を、押し退けるようにしてシュウは、明け始めたばかりの光と空気が忍び込む部屋に立つべく、ベッドから抜け出ようとしたが。

「…………ん…」

小さな呻き声を上げて、シュウは動きを止めた。

そのさまに、何が起こったのか尋ねようとしたけれど、身動みじろぎ、躰を丸めた想い人が、痛みか何かを堪えているのだと察し。

「シュウ」

ルカは、逃げて行った躰を、もう一度、腕の中に収めた。

「…離せ」

「断る」

「もう、日が昇り始めた。支度をしないと……」

「忙しい宰相殿は、こうしてまどろんでいる時間もないか? それとも、誰かに覗かれでもしたら、厄介か?」

力の込められぬ躰で、何とかルカから逃れようと、シュウは足掻いたが、それは、無駄な足掻きでしかなく。

抗えぬのならばと、揶揄して来た相手をシュウは思いきり睨んだ。

「いい加減にしろ……」

「睨まれても怒鳴られても、俺は恐れん。いいから大人しくしていろ。…………無理をさせられたのだから、一日くらい休んでみても、罰は当たらんぞ」

しかしそんな風に、彼が睨んで凄んでみせても、ルカには通じず。

シュウを抱き締めるルカの腕の力は、益々強まるばかりで。

「…誰の所為だ……」

逆らうことを諦め、シュウは唯、項垂れた。

「俺と、お前の所為だな。心配などするな。責任はちゃんと、取ってやる。──……シュウ? 忙しく立ち働くのも良いが。もう少し、己の時間も持ったらどうなのだ? 程々にせんと、又、あの小僧共に、俺が兎や角云われる」

大人しくなったシュウに、一度だけ軽い接吻を落として、ルカはベッドから抜け出た。

責任を取る、と云った手前。

今日一日、この部屋に誰も近付けぬ手配を整え、自ら、シュウの代わりを彼は勤めるつもりなのだろう。

「……あの小僧共とは、出奔してくれた、我が道を歩んで止まぬ国王陛下と、何処ぞの英雄殿か? 彼等が、我々が結局はこうなったのだと、知る由もないし、何より、彼等はきっと今頃、遥か遠くの空の下なのだから。私が多少だけ働き過ぎようとも、彼等には何も言えぬ」

真実、あの不可思議な質の少年の愛する仲間の一人だった宰相殿を、御することも出来ないようでは、自分が文句を云われると、さらり零したルカに、シュウは苦笑を浮かべたが。

「どうかな? きっと『何時でも』、あの小僧共は我々を見ているのだろうと、俺は思うが。永遠を生きると決めた、あの小僧共のことだからな。──例え永遠を生きる相手でも、大人の俺達が、子供に世話を焼かれるようでは堪らん。あいつらにぶつぶつ云われん為にも、俺の想いの為にも。俺がお前を守らねばな」

ルカは。

今だけは『遠く懐かしい』少年達を想って、漸く、その手に収めること叶った『恋人』へと笑い掛けた。

End

後書きに代えて

『brightring-firefry 異聞』の後日談@その一。

異聞本編の方は、ルカ様とシュウさんが『一応は』素直になったのではなかろうか、という処までを綴った物語でしたので、イチャコラしてるお二人を、別枠でお届けしようと思いまして、書いてみました。

真実、ラブラブなのかは私的に疑問ですが(笑)。

──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。