カナタとセツナ ルカとシュウの物語
『白夜』
両肩に渡すようにして担いだ、借り物の釣り竿を軽く撓らせ、空を見上げれば。
天頂にあったのは、見事なまでに真円の、月だった。
「おや、これはこれは、随分と見事だ」
だから、ふうん……と、嬉しそうに、そして、可笑しそうに。
竿を鳴らし続けながら彼は、見上げた月に、目を細めてみせた。
「余り見事だと、ねえ? ……叶わぬ願いの一つも、投げ掛けてみたくなるから。出来れば少し、遠慮して貰いたい処だけどね」
瞳細め見遣った月に、まるで、挑むように。
彼は、そんな一言を呟いて、ふと、面差しを『軽い』それへ塗り替え。
「さて。夜釣り、夜釣り」
随分と軽快な足取りで、腰にぶら下げた、餌も放り込まれていない魚籠を揺らしつつ、その細道を、奥へと進んだ。
只でさえ、鄙び過ぎていると言える、川辺の小さな村だ。
真夜中の今は、目抜き通り、と言うのも憚れるくらいの幅しかない、村を貫く通りにも、彼が進む小道にも、人影はなく。
今にも鼻歌を歌い出しそうな足取りで、月光が、彼の影だけを浮かび上がらせる中、上着の襟足に掛かる程度の長さをした髪に巻いた、若草色のバンダナの端を靡かせつつ彼は、小道を進み切り。
そよ風すらないその夜は殊更に、静寂だけがある小さな池の畔の、桟橋『らしき』、水上へと突き出た板張りに、腰を下ろした。
そうして傍らに、腰にぶら下げて来た、魚籠を放り投げ。
肩に担いで来た、釣り竿を下ろし。
ぽちゃん……と音を立てつつ釣り糸を垂らして、先程の、夜釣り、の独り言を彼は実際の行いへと移す。
────この、夜ともなれば、通りを過ぎ行く者の影も消える、『深夜の為の娯楽』一つすらないだろう、鄙び過ぎている村は、名を、バナーと言う。
つい先日まで、ジョウストン都市同盟と呼ばれていた、小さな都市国家の集まりの領内にあり、デュナン湖からトラン湖へと注ぐ、デュナン川の流れの途中に出来た、本当に小さな漁村。
尤もその川の流れは、国境を越え、三年前数ヶ月前までは、赤月帝国と呼ばれていた国──現・トラン共和国へ辿り着いた途端、トラン川、と名を変えるのだが。
だがまあ、一応は、以前のジョウストン都市同盟の領内に位置するバナーでは、その川はデュナン川と呼ばれており、その川にて漁を行い、村人達は生計を立てている。
──ここバナーは、本当に本当に、小さな村だから。
先頃、長年戦を繰り返して来た北の隣国、ハイランド皇国が、交わされたばかりの休戦条約を一方的に破棄して侵略を開始した為、都市国家の集まりでしかなかったジョウストン都市同盟は瓦解し、その後を受けて起った、十代半ば、という、『幼い盟主』に率いられた同盟軍が、旧・ジョウストン都市同盟の領地を、ほぼ、そっくりそのまま引き継いだ、というのにも、余り影響は及ぼされていない。
そもそも、バナーの村の民にとっては、己達が恙無く日々を送れることが第一であり、誰が自分達の村を治めようと、それが悪政でない限りは、余り頓着しない。
この村の背後に控える、深い深い森を越えれば、赤月帝国時代から延々、国境争いを繰り返して来た南の隣国、トランに辿り着けると言うのに。
トランとデュナンを行き来する、数少ない旅人達の為に、村には小さな宿屋もあると言うのに。
バナーの村の人々は、今現在、トラン共和国を治める者が誰なのかも良くは知らなかったし、新生同盟軍を率いる『幼い盟主』の名前こそ知れ、その顔も、本当の年齢も、良くは知らなかった。
……だから。
村の人々は。
数日前から、村に一軒だけある宿屋に逗留して、物見遊山の旅の途中なのか何なのか、日がな一日、それこそ昼でも夜でも、気が向く限り、村の裏手にある、小さな、池と言うか貯水池と言うか、に向って、釣り糸だけを垂れている若い旅人──即ち、『彼』が。
本当は何者なのかも、良くは知らなかった。
──バナー村の『殆ど』の者が、その正体を知りもしない、若草色のバンダナを巻いた彼は。
それなりには高さのある身の丈を持っていて、体躯は細く、けれど華奢と言う程ではなく。
漆黒の髪と、漆黒の瞳を持った、それはそれは見目麗しい、『少年』だったから。
余所者を物珍しがる村人達の、噂に上ってはいた。
姦しい漁師の女房達は、池へと向う彼を遠巻きに眺めて。
歳の頃は十七、八くらいだけれど、中々良い男じゃないか、もう少し、『大人』だったらねえ、とか。
ちょいと立ち振る舞いが出来過ぎてるから、きっとハルモニアか何処かの、お貴族様の子息なんじゃないのかい? 遊学の途中なんだよ、多分、とか。
そんなことを言い合っていたし。
女房達の噂に聞き耳を立てた漁師達は。
三年と少し前に、トランでは解放戦争が終わったばかりで、デュナンでは、今戦の真っ最中だってのに、遊学とは良いご身分で、とか。
そんなことを影で言った。
…………狭い漁村での噂話だ、数日逗留しただけの彼の耳にも、そのような噂は届いたが。
村人達の間を飛び交う、己に関する噂のどれもこれも、正しくはなかったから。
意にも介そうとはしなかった。
例え見た目がどうであれ、彼の本当の年齢は、十七、八ではなく、二十二だったし、元・貴族の子息、というのは当たっていたけれど、ハルモニア神聖国の出身ではなかったし、無論、遊学の旅の途中でも、物見遊山の旅の途中でもなかったので。
人の噂も七十五日、言いたいだけ言わせておけばいい、と彼は。
世間から隔絶された村人達だ、単に、噂話がしたいだけなんだろう、そう思っていた。
…………でも。
彼とて、叩けばそれなりに『埃』は出る身で、本名を端折り、宿屋の宿帳に、只、『カナタ』と書いただけなのに、宿屋の主人夫婦の息子のコウは、何を勘違いしたのか、彼のことを、デュナンの同盟軍を率いる将軍様だ、と誤解しているし、やはり、宿屋の主人夫婦の娘──即ちコウの姉のエリは、己の『正体』を本当に知っている素振りを、垣間見せるから。
そろそろ、腰の上げ時かな、とは思いつつ。
けれど、ずるずると。
彼は、その日も、夜釣りを。