彼、カナタの本名を。

家名まできちんと綴るなら。

カナタ・マクドール、というそれになる。

恐らく、今のトラン共和国では、その名を知らぬ者は殆どいないだろう、名になる。

三年数ヶ月前に終結した、トラン解放戦争にて、二代目の軍主として解放軍を率い、数百年、トランの大地を治め続けた赤月帝国を討ち滅ぼし、祖国を解放した『英雄』の名だから。

それが、彼の『正体』だから。

……だから、トランを故郷とする人々は、良く知っている。

彼の名も、彼のことも。

十代後半という齢で一国を打ち立て、あれから三年が過ぎた今、『伝説の英雄』となった彼のことを。

あの戦争が終結したその夜、誰にも何も告げず、『伝説の英雄』が、忽然と姿を消したことも。

…………そう、彼は、あの戦いが終えた夜、故郷の街を後にした。

誰にもそれを打ち明けず、たった一人で。

そんな風に彼が姿消してしまったことを、ある者は嘆き、ある者は誹り、ある者は何故、と問うたけれど。

そんな『推測』は、彼にしてみれば『余計なお世話』で、僕には僕の、事情がある、という奴になる。

留まる訳にはいかなかったから、故郷を後にしただけのことだ、と。

この身には、呪いの紋章と言われる、二十七の真の紋章の一つ、ソウルイーターとも魂喰らいとも呼ばれる、生と死を司る紋章が宿っている、それも理由の一つだよ、と。

……それは、己の腹の内に抱えた様々なモノを人に見せたがらない質の彼にしては珍しく、『本音の一つ』だ。

本当の齢は二十二であるにも拘らず、バナーの村人達に、十七、八、と思われる外見を彼がしている理由、それも、ソウルイーターにある。

この世に二十七だけ在るという、真の紋章達は、その宿主に不老を与える。

だから、その内の一つを宿すカナタも、その理に従い、不老になった。

それを宿した年、十七だったあの年、それから彼は、外見上の歳を取らなくなった。

尤も、真の紋章が齎す『呪い』が、不老という運命だけであったならば、恐らくは彼も、故郷を後にはしなかったのだろうが。

呪いの紋章と、まことしやかに語られるだけのことはあって、ソウルイーターは、それ以上に『厄介』な存在だった。

宿した者──即ち、彼、カナタ──の、近しい者、愛しい存在、その魂は喰らって歩くし、唯そこに在るだけで、戦乱は引き起こすし。

それ故、それだけが全ての理由だった訳ではないけれど、そう言った事情もあるからと、彼は故郷を旅立った。

………………けれど、今。

彼は。

峠一つを越えれば直ぐそこに故郷がある、バナーの村に、数日も逗留している。

背を向け、旅立たなくてはならなかった故郷は、手に取れそうなのに。

デュナンの大地は、魂喰らいの好む、戦乱の直中にあるのに。

……だが、やはり彼に言わせれば。

魂喰らいがそこに在るから、戦乱が起きるのではなく。

魂喰らいを求める者がいるから、戦乱が起こるのだろう? との理屈になる。

戦乱を引き起こすのは、紋章ではなく、人の性だと。

例え、真の紋章が如何なる存在であろうと、紋章の力なぞ誰も求めなくなれば、それを理由とした戦乱などは起こらない、それが彼の言い分らしい。

魂喰らいが、宿した者の、近しい者、愛しい存在、その魂を喰らうのも、魂喰らい自身にもどうしようもない『理』であって、三年前に終結した戦争の中で、己の愛しい者達ばかりを亡くし続けたその運命は、己が至らなかった結果で、奪われてはならぬ者を、あっさり奪われてしまうくらい、自分自身が弱かっただけのこと、と。

それでも故郷を離れたのは、あの出来事が再び繰り返されるのは許されないし、許さない、と思う程、彼にとって、故郷が『大切』な存在だったというのが理由の一つで、けれど所詮、それもこれも、何処までも、『理由の一つ』でしかなく。

本当に、誠に、複雑怪奇としか言えない性根と考え方を持ち合わせている彼には、今はそんなことよりも、もっと他のことの方が、大切だった。

その為に、『全てのことを公平に鑑みた場合』、己のような存在はいない方がいいだろうバナーの村に、長居していた。

魚を釣り上げる気もないのに、朝な夕な、釣りに勤しみ。

真夜中も、釣り糸を垂れつつ。

昼は、眩しい夏の太陽を見上げ。

夜は、煌煌と照る月を見上げ。

『楽しいこと』でも、あればいいのにね、と。

故郷の街を後にして、三年と少し。

思うまま、世界のあちらこちらを流れて、旅の空の下生きて来たカナタは、ある日。

トランの隣国デュナンにて、戦が始まったらしい、との噂を聞いた。

『大切』な、『大切』な故郷、トランの隣国で起こった戦。

ひょっとしたら災いが飛び火して、故郷でも、何かが起こるかも知れない、そう思って、彼は故郷の方角へ足を向けた。

けれど。

己の足が、故郷へ、デュナンへ、と近付くにつれ、行き過ぎる街、行き過ぎる人々、そこから洩れ聞こえて来る噂を彼は、敢えて耳には入れぬよう努め始めた。

それでも、人の噂という代物は、どうしたって届くから。

日々、少しずつ、デュナンにての戦いが、激しさを増していること。

ジョウストン都市同盟の盟主市、ミューズが陥落したこと。

それらは、聞いてしまったし。

デュナンはもう駄目だ、もう直ぐ、ハイランドの狂皇子の手に陥ちる、と、あちらこちらの街や村を噂が駆け巡った数週間後、都市同盟の跡を継ぐ、新しい同盟軍が起ったらしい、デュナンの連中も踏ん張る、とのそれも、知ってしまったし。

『踏ん張るデュナンの連中』の中に、どうにも、やたらと聞き覚えのある名前が混ざっているような気がするのにも、気付いてしまった。

だから、それより一層、彼は過ぎる街、過ぎる村、過ぎる人々から聞こえて来る噂話に、耳を塞ぐようにして。

北から入ったデュナンを縦断し、一路南へ向って、トランとの国境に近い、バナーに落ち着いた。

ここに暫く腰を据えてみれば、故郷に何か起こっても、直ぐに判るだろう、そう思ったが為に。

けれど。

そろそろ腰の上げ時かなと、そう思えても。

宿屋の娘は、解放軍の一員だったと、記憶が訴えて来ても。

彼の腰が重いのは、故郷の為、それだけではなく。