カナタとセツナ ルカとシュウの物語
『伸ばそうとも触れられぬ、その水底の形の』
風呂職人のテツが、新しい風呂場を拵えた、と云う話は、当然、彼も聞いていた。
だから人々が、新しい共同浴場に浸かるのをとても楽しみにしているように、同盟軍の盟主たる彼、セツナも、その日は殊の外、入浴の時間がやって来るのを、待ち侘びていて。
彼は暇が出来たら直ぐにでも、今日も又、同盟軍の居城に姿を見せている……いや、正しくは、昨日、セツナに自宅まで迎えに来られて、デュナン湖畔の城を訪れている、トラン建国の英雄、カナタ・マクドールや、トラン共和国大統領レパントの子息、シーナ達と、浴場に赴く予定だったのだけれど。
今、セツナには、新しい浴場に向かう、と云うことよりも、楽しみなことがあったから。
「マクドールさーん。ジャスミンのお茶でいいですか?」
にこにこと微笑みながらセツナは、自室の片隅に置かれた茶器一揃えを前に、コポコポと、湯を注ぐ音を立てさせながら、くるん、とカナタを振り返った。
「うん、いいよ、僕は」
「はーい」
室内に設置されたテーブルに着き、セツナが茶の支度をしてくれているのを大人しく待っているカナタより、ジャスミンのお茶で構わない、と云う答えを貰い。
益々、頬笑みを深めてセツナは、手許の動きを早めた。
風呂職人、テツの『新作』が完成したその日。
ルカ・ブライト、と云う、ハイランドの狂皇子の『存在』が、この世から消えて、暫しの時が流れているその日は。
ルカが『死んだ』と云う噂を聞いて、戦争も、世の中の動きも、一段落付くと感じた者が世間に増え出したのだろう、あちらこちらを回っているらしい、旅の商人達の一団が幾つか、同盟軍居城の商業区を訪れていて。
一寸した市が、出来ていた。
──実際問題、ルカ・ブライト、と云う男が確かに死んだ、と云うのは、事実ではないし。
戦争や世の中の動きに関して云えば、先日、現・ハイランド皇国の占領下にあるミューズ市で行われた、同盟軍とハイランドの和平交渉は、ものの見事に決裂しているから、真実、『世の中』に変化は齎されてはいないのだけれども。
対外的に、ルカ・ブライトは死んだことになっているし、それを知る者は、同盟軍の中でも、ほんの一握りに限られているし、ハイランドと同盟軍の和平交渉が、あんな形で決裂したことは、未だ、それ程世間に流布されていないので。
そろそろ平和がやって来る、と信じた者達が、同盟軍居城に集まり、盛大に商売を始めたのは、致し方ないことなのだろうし。
セツナもセツナで、『現実』は余り芳しくはないが、人々の営みが豊かなのは良いこと、と、何時もの『頼りなげ』な盟主の頬笑みを湛え、その市を彷徨いた。
……と、そこで。
賑やかな人々を眺めたい、と云う思いと、何か、掘り出し物でもあれば、と云う思いで、市を歩いていたセツナを、一人の行商人が捕まえ。
「盟主の、セツナ様ですか? 宜しければお一つ、如何です?」
にこにこ笑いながら、セツナに、出来たての肉饅を五つ程、差し出してくれていて。
「え、いいの? 有り難うっ」
セツナは、もうそろそろ、借りた本を返しに図書館へ向かったカナタが、自分の部屋へ戻っている頃合いだと察しながら、湯気が立つ、ほかほかのそれを、ぱっと笑みながら受け取った。
──そう。
その時、セツナが受け取った、肉饅。
それが、今、シーナなどと交わした入浴の約束よりも優先される、彼の『お楽しみ』だ。
じっと抱いていると、薄い紙袋に包まれていても手を離したくなる程熱くて、沢山の湯気を立てていて、それはそれは柔らかく、良い匂いを放っているそれ。
別に、セツナは意地汚い訳ではないけれど、確かに彼は、食べることが好きだったし、義姉の拵える、余りにも凄まじい味付けの料理を口にするのを、長年耐え続けて来た反動か、美味しい物には目が無かったし、頂き物のそれは、丁度やって来た、午後のお茶の時間、カナタ達と食べるには、相応しい代物だった、と云うのが嬉しくて。
いそいそと、彼は。
「……嬉しそうだね、セツナ」
テーブルに着いて、セツナの支度が整うのを待っているカナタが、くすりと笑いを零す程、午後のお茶への意気込みを、抱えていた。
「え、だってー。こんなに美味しそうなんですよ? も、あっつあつの内に頂いちゃったし。マクドールさん達と食べるには、丁度いいしっ」
ぱぱっと支度を終えて。
皿に盛った肉饅と、ジャスミンの茶の入った急須と暖めた湯飲み、それらを運び、テーブルの上に並べ。
とぽとぽ、音を立てて茶を淹れながら、にこっとセツナは笑った。
「ハイ・ヨーさんの作る肉饅も、そりゃあ美味しいですけど。ああ云う、一寸お祭りっぽい市場なんかで買う食べ物って、又、別の味わいがあるじゃないですか」
はい、どうぞ、と。
茶を淹れたばかりの湯飲みを一つ、カナタの前に差し出し。
己も席に着くとセツナは。
「いただきまーーす」
待ってました、と云わんばかりに、肉饅を取り上げた。
「本当に、セツナは、美味しいそうに物を食べるよねえ……」
先ず、一口茶を飲んでから。
カナタも又、セツナに倣って、卓上のそれを取り上げる。
「美味しい物は、美味しい顔して食べた方が美味しいです」
やけに感心した風に、肉饅に被り付こうとしていた自分を眺め。
しみじみと云ったカナタへ、セツナは云った。
「世の中には、美味しい物も、『不味い』って評価する人間も、いるのにね」
ペリペリ、肉饅の裏の紙を剥がしながら、カナタは唯、笑い続けた。
「それって、ルックのことですか?」
「…………僕が、どうかした?」
「よー。セツナにカナタ。風呂行こうぜ、風呂」
──セツナが、カナタの発言を受けて、ルックの名前を出したその時。
トントン、とノックの音がし。
返答を待たずに、盟主の部屋の扉は開いて。
当のルックとシーナが、顔を覗かせた。
「んー? 別に、何でもないよ?」
あちゃ、聞かれたかな? と。
ムスッとした顔で登場したルックを横目でちらり眺め、誤魔化し。
もふっとセツナは、肉饅を食べ始める。
「お風呂は、後だって。これを食べてから、なんだそうだよ。──二人も、相伴する?」
睨め付けてくるようなルックの視線から逃げ、いそいそと茶菓を食べ始めたセツナを庇うように、カナタが二人を見た。
「これ? ああ、肉饅?」
ルックの機嫌が悪いのは、別に今に始まったことではないし。
『慣れ』もある、と。
トラン解放戦争当時より、このへそ曲がりな風の魔法使いと付き合いのあるシーナは、未だ何か云いたそうな顔をしているルックを置き去りにして、二人の座っているテーブルへと近付いた。
「そうそう」
シーナに答えながら、カナタも又、手で割った肉饅を、口の中に放り込む。
「あー、旨そう。俺も、食べていい? セツナ」
はむはむと、『それ』を食べ続けるセツナ、徐に、その切れ端を口の中に入れたカナタ。
それらを見比べ。
シーナはそう云ったが。
「……………んっく……。──駄目」
ん? と云う顔をして、口の中の物を飲み込みセツナは、近付いて来たシーナを見上げると、拒否を告げた。