カナタとセツナ ルカとシュウの物語
『行方』
─序─
沈痛、と云うに相応しいだろう重たさが織り混ざった溜息を、フ……と、トラン共和国初代大統領レパントは零し。
眺めていた書簡を、重厚な造りの執務机の上へと投げ出して、軽く天井を仰いだ。
「どうかなさいましたか? 貴方」
すれば、余り、そのような態度を見せることのない彼の今に、大統領執務室にて、夫の執務の手伝いをしていた、レパントの妻アイリーンが、書類を捌いていた手を止めて、ほんの少し、怪訝そうな顔をしてみせた。
「…………ああ、報告書、ですか? 国境警備隊……。バルカスからの物ですね。例の噂のことで、何かございました?」
仕事を中断したアイリーンは。
着いていた席より立って、夫の傍らへと進み、放り出された書簡を取り上げ、視線を落とし。
最近、夫や、国境警備隊長のバルカスの頭を悩ませていて、手に取った報告書にも記載されている、『噂』の話を始めた。
「まあな」
愛妻が尋ねて来たことは、正しいから。
レパントは肩を竦め、それを肯定する。
────数週間前、己の耳にも届いた、『噂』と云うか、事実と云うか、が、今の悩みの種だ、と。
…………少し前から、トラン共和国内では、一つの『噂』が囁かれている。
トランの北にあるバナー山脈に、山賊と云うか、夜盗と云うか、兎に角そんな輩が出没するようになったらしい、との『噂』が。
それが何故、『噂』と云うか、真実と云うか、と表現されるのかと云えば、人攫いを専らの生業にしているらしい輩達が、本当にいるのかどうか、確かめ切れていないからだ。
実際問題、隣国の、デュナン地方との国境付近に当たる、バナーの峠付近では、行方不明になった女性や子供が幾人か出ているから、強ち、単なる噂と云う訳ではないようだし、噂の連中が、大体どの辺りを根城にしているのかも、判明していない訳ではないのだけれど。
先日、バナー山脈の奥深くへと調査に向かったバルカスの部下達は、未だに戻って来てはいなくて。
「嘘か誠か判らんが。……三年前の解放戦争に参加していた、傭兵達のなれの果て、との噂もあるし。赤月帝国に仕えていた、帝国兵の残党、と云う噂もあるし、でな。唯、食うに困って罪を犯している市井の者達の一団、と云うのではなさそうで……頭が痛い」
『噂』が、噂の範疇に留まらず、真実の色を濃くして行くに連れ、事態が深刻になって行く、と、レパントは妻に零した。
「……噂の者達が、解放軍に参加していた一般兵士達のなれの果てでも、帝国兵のなれの果てでも、貴方や、大統領府に仕えてくれている者達ならば、何とか出来ますでしょう? 例え、手強い相手だったとしても」
ムスっとした顔で、ぼそぼそ零した夫に、アイリーンは何をそんなに……と言わんばかりの表情を、刹那拵え掛けたけれど。
「ああ……。貴方の思い煩いは、それではないのですね」
ふと、彼女は別のことに思い当たって、会得したように頷いた。
「そうだ。……三年間行き方知れずだったカナタ殿が、ここグレッグミンスターに戻られていると云うのに。…………噂の連中が、元・解放軍兵士にしろ、元・帝国兵にしろ、不様な話だ。……あれから三年が経って……この国が在るのも、この街が、『尚も麗しき黄金の都』なのも、全てカナタ殿がおられたからだと云うのにな」
妻へと向き直ることなく。
唯、天井を仰いだまま、レパントは、アイリーンが会得したことを、音にして語る。
「…………そうですね……。でも……あの方は…………──」
本来ならば、カナタが就く筈だった、トラン共和国初代大統領の椅子に座っていると云うのに、何と不様な『今』かと、レパントが呟けば。
アイリーンは、僅か睫毛を伏せて、憂いを窺わせたが。
何やらを言い掛け、そして飲み込み。
「何だ? アイリーン」
「いいえ。何でもありませんわ、貴方」
天井を見上げること止めて、飲み込んだ言葉の先を尋ねて来た夫へ、にこっと彼女は微笑んでみせた。