カナタとセツナ ルカとシュウの物語

『雨の月夜』

見上げた夜空は、確かに晴れているのに。

通りすがりなのか、俄のものなのか。

藍にも見える空に、真円と見紛う月が浮かんでいるにも拘らず、ぽつりぽつり、冷たい雨が、先程より降り始めた。

「急な雨ですね。でも、お月様ちゃんと見えますから、その内止んじゃいますかね」

────そう、昼間の内も、日が落ちてからも、その日の天気は晴天に恵まれていたのに、ほんの少し前より、窓の向こうから雨音が聞こえ始めたから。

ひょいっと、セツナは行儀悪く、宿屋の出窓に腰掛けて、ガラスに手を付き、空を見上げた。

酷く、複雑そうな顔をして。

「そうだね。直ぐに止むんじゃないかな。……早く、止んで欲しいね」

ぷらりぷらりと、出窓から下げた両足を所在な気に揺らして、腰から上だけを捻り、ベタっと窓に貼り付くセツナへ、やれやれと笑いながら近付き、セツナの直ぐ脇に両手を付きながら、やはり窓越しに空を見上げ、カナタ・マクドールも又、複雑そうな顔を作った。

────ここは。

トランの地からも、デュナンの地からも、遠く遠く離れた、最果てに近い南の国。

そんな国の片隅の村の、更に片隅の宿屋の一室に、今、彼等は居た。

デュナン統一戦争が終結してより、ほぼ五十年。

それだけの年月が過ぎたけれど、トラン建国の英雄、カナタ・マクドールも、デュナン統一戦争に於ける英雄、セツナも、五十年前の、本当に少年だった頃の姿のまま在る。

その理由は…………語るもがな、だろう。

真の紋章をその身に宿した者は、年を取らない。

それは、この世界の理。

だから、その理に従って、姿形を変えぬ彼等は、長きに亘る放浪の旅の途中で、その一夜の宿を、南の国の、小さな村の、小さな宿屋に求めた。

彼等の流離さすらいの旅は本当に長いから、宿に泊まること叶おうが、野宿の運命を辿ろうが、今更二人は頓着などしないが、出来ることなら暖かい食事と柔らかいベッドにありつける場所は得たいと云うのが本音であるし。

その日、彼等が辿り着いたその村は、今を遡ること丁度五十年前、二人が初めて出逢った、バナーの村に良く似ていたから。

カナタとセツナは、久し振りに、きちんと宿に泊まろうか、と頷き合い、こうしている。

あの当時を振り返って、感傷に浸ってしまった、と云えばそれまでだけれども、その村は本当に、バナーの村に良く似ていて、邂逅の場所となった池さえも、瓜二つの姿で存在しているのだから、彼等でなくとも、と云う奴だ。

天候には恵まれたし。

午前の遅い時間、村に辿り着くや否や、釣り、と洒落込むことも出来たし。

その日は、何よりも特筆すべき、『記念日』だったのだから。

少しぐらいの贅沢は、彼等にも許される筈だ。

「凄い偶然ですよねー。五十年前、僕とカナタさんが初めて逢った丁度その日に、バナーの村に良く似たここに、辿り着くなんて」

首が痛くなるんじゃないかと、隣に並んだカナタが内心で要らぬ世話を焼く程、思いきり良く上向き、セツナは、昼間から喜び続けている『偶然』を、又、喜んだ。

「本当にね。この村の名前が何て云うのか知らないけど。バナーって名前でも驚かないくらい、良く似ている」

夜空を眺める視界の端に、セツナの姿を留めながら、カナタもそれに同意した。

──そう。

その日は『記念日』だった。

セツナが云った通り、彼等二人が初めて出逢って、丁度五十年目の。

彼等、二人だけに意味のある記念日。

「短かったのかな。それとも、長かったのかな。この、五十年」

恐らくは、南国特有の俄雨のそれなのだろう雫が、宵闇に混ざり続けるのを見詰めながら。

ぽつり、カナタが云った。

「さあ……。どうでしょうね。長かったような気もしますし。短かったような気もしますし」

カナタの呟きを受けて、上向いたままセツナは、首を傾げた。

「過ぎて行く時間は、短かった。でも……見方を変えれば長かった。僕にとってはね」

「…………僕にとっても、そうだったかも知れません。あっと云う間に過ぎてしまったモノもあるし、過ぎてくれなかったモノもあるし…………」

……時の流れは性急だったけれど。

そうは立ち行かないモノもあったと、カナタが云えば。

僕もそうです、とセツナは、雨の向こう側に見える満月をいまだ見遣ったまま答えた。

「雨が、止むといいのに」

だからもう、セツナが振り返ってくれることは期待せず、カナタは、『長かったコト』の一つの例えは、と。

そんなトーンで、雨を見据えた。

「カナタさん、雨、嫌いでしたっけ?」

隣に並んだ彼の言い回しに、何処か負の感情らしきものが窺えて。

そこで漸く、セツナはカナタを見た。

「嫌いな訳じゃないよ。好きでもないけれど。僕にとって、どうでもいいことの一つ。雨なんてね。……唯、雨の夜には、余りいい思い出がないから」

「………ああ……。──そう……でしたね」

「そ。だからね。未だ、晴れ渡った満月の夜の方が、望ましいかな」

「………………僕は、雨、好きですよ。満月の方が嫌いです。今となっては。────お月様は何時でも、僕の思い出に付いて廻りますからね。……ほら、昔……同盟軍の本拠地で、皆でお月見、したことがあったじゃないですか。あの頃は『それでも』、好き……だったんですけどね…………」

「本拠地でした、お月見、か……。懐かしいね。──そう云えば、あの時も云ってたっけ。良く、『彼』と一緒に、月を見上げたんだったね、セツナは」

「……はい。だから、お月様のそう云う部分、僕は今では、嫌になっちゃいました。……あ……『あの時』もそうでしたけど……カナタさんと一緒に見るお月様は、別……ですからね……?」

好悪の情が、そこにある訳ではないが。

雨の夜には、余り良い思い出が無い、とカナタが云えば、セツナは、満月の夜の方が嫌いだ、と告げた。

この五十年間、カナタの中で、『長かったことの一つの例え』が、雨であるように。

やはり、この五十年間、セツナの中で、結局、『過ぎてくれなかったモノの一つ』は、満月の夜だ、と。

──だから。…………じゃないよね?」

「はい?」

「いや、だから。『だから』、じゃないよね?」

「…………何がですか? 今夜はヤケに、変なこと云いますねえ、カナタさん」

己の中の満月は、カナタの中の雨に等しい、とセツナが云ったから、ほんの僅か首を傾げ、何かを想い。

カナタは徐に、セツナの薄茶色の瞳を覗き込んだ。

けれど、彼に何を云われているのかなど判ろう筈もなく、セツナは唯、きょとん、とした。

「好きか嫌いか、二つに一つの答えを、絶対に選べと云われれば、僕は、雨は嫌いだと答えるんだろう、多分。でも、セツナは雨、好きだよね?」

「……ええ、まあ。酷過ぎるのは困りますけど。恵みの雨のレベルなら」

「同じようにね。好きか嫌いか、二つに一つを選べと云われたら、セツナは多分、お月様は嫌いだと、そう答えるだろう?」

「えっ……と…………。──多分……。嫌い……って訳じゃないですけど……」

「……でもね、セツナ。僕は満月って、好きだよ? ──僕の云いたいこと、判る?」

「………………判りません」

──きょとん、とした彼に。

畳み掛けるようにカナタは、不可思議な台詞を語って聞かせたが、セツナ曰くの『変なこと』、に続く不可思議な台詞達は一層『変なこと』で、故にセツナには、理解出来る筈もなくて。

「まあ、幾ら君でも、判らないのが普通か」

何を云っているのかなー、と、眉間に深い皺を刻んだセツナを、ふっ……と穏やかにカナタは笑い。

「ね、セツナ」

「はい?」

「僕達が出逢って、今日で丁度五十年だね」

笑んだまま彼は、両腕を伸ばし、セツナの頬を包み込むようにして、話を変えた。