カナタとセツナ ルカとシュウの物語

『波止場』

通年を通して、春という季節の中にある、誠に気候穏やかな国で一番の、港町の。

そこは、波止場だった。

南国と言う程ではない、が温暖なその国で、一番の賑やかさを誇る、他国への出口であり、他国からの入口の一つ。

だから、波止場は今日も、沢山の人々でごった返していた。

あちらの国へ向う船の乗船受付も、そちらの国へ向う船の乗船受付も、土地の者は見飽きてしまっている、何時もの列が出来ていて、大きくて高い、木製の屋根に覆われた沢山の受付が並ぶ近くには、商魂逞しい商人達が、一寸した、市場を開いている。

旅立とうとしている者には土産を、帰って来た者には労いの品を、そして、全ての者に暖かい食事と、望む飲み物を。

犇めく商人達は、それぞれ振る舞っていて、数多の人々が列を成す乗船受付よりも、尚、市は混雑が激しかった。

そんな波止場を行き交う人々は、髪の色も、肌の色も様々で、男も女も年寄りも子供も、至る所で見掛けられて、様々な民族衣装の裾が、あちらこちらで翻っていた。

──そこは、そんな風な波止場だから。

当然以前の問題で、海の男達の出入りがあることも相まって、荒っぽい出来事も多く、誰が誰に殴られただの、誰が誰を殴り返しただの。

何処其処の碌でなしが、何処其処の阿婆擦あばずれの尻を撫でたの撫でないの、と言った切っ掛けが引き起こす騒ぎが絶えない。

絶えない処か、それが日常茶飯事。

それ故に、『行儀が宜しい』一部の者達を除けば、波止場で働く者達も、旅慣れている風な者達も、一寸やそっとの騒動が起ころうとも、意にも介そうとしない、旅行く者達にとっては、大変有り難い横顔を持ってもいた。

────波止場を行き交う者達の中に、如何なる者達が紛れ込もうとも、誰も、何も、気にしない、そんな、横顔を。

彼の生まれ育った場所は、見渡す限り、草原だった。

在ったのは海でなく、『緑の海』だった。

草原で生まれ育った、精霊と語ることさえ成す彼は、家族や故郷の人々同様、草原の民と呼ばれて来た。

それ故だろう、暫くの間放浪した、海ばかりに囲まれたその異国の風に、どうにも彼は馴染めなかった。

──もう何年もの間、彼は旅ばかりを続けて来たし、大海とて、幾度も幾度も目にして来たけれど、どうしても彼は、潮風というものに、馴れなかった。

恐らく正確には、潮風に馴れぬのではなくて、蒼の海を渡る風と、翠の海を渡る風の余りの違いに感じ入ってしまい、遠く離れた故郷、グラスランドを思い起こしてしまう所為なのだろうけれど。

それを彼は、故郷を思い起こしてしまうが故ではなく、潮風独特の、少しばかり肌を刺すような感触に、自分はきっと馴れないのだと、わざと思い込むことにしていた。

だから、只でさえ温暖以外の何物でもない気候を誇るこの国の、溢れる人いきれが風に熱を齎すこんな波止場では、纏ったマントを脱ぎ去り、身軽になって歩きたいな、との、『表の感情』とは裏腹に、無意識の内に、マントの合わせ目を胸許辺りで押さえ、彼──ヒューゴは、行き交う『大人達』の合間を、縫うように進んだ。

……………………『あれ』から、もう、何年が経つだろう。

多分、七十年程、歳月は過ぎている筈だから、彼が生きて来た年月のみを数えるならば、そろそろヒューゴは、齢八十数歳、ということになるのだが。

彼の見た目は、何処からどう見ても、十五、六歳程度としか受け取れない、少年のそれだ。

今を遡ること、約七十年程前、彼の故郷グラスランドを舞台に、今では『英雄戦争』との名を冠されている戦いが起こった時、彼は、この世の神とたとえても過言ではない、二十七の真の紋章の一つ、真なる火の紋章を宿したから。

宿した者に不老を与える、『紋章』を、今尚、その身に携えているから。

『あの頃』と変わらず、ヒューゴは、少年のままでいる。

……見た目だけは。

────英雄戦争を戦い抜いて、大国・ハルモニア神聖国よりの、故郷への侵略を防いで、それより暫く。

産みの母の口癖が、「私も歳を取ったのかね」、になった頃、己達の一族、カラヤの民の族長だった母の後を継いで、彼も又、長にはなったけれども。

約五十年程座した長の地位より、彼は自ら降りて、一人、世界を彷徨い出した。

彼の先代の『火』の継承者がそうしたように、右手に宿し続けた紋章を、人知れず封印して。

そうしてしまったが最後、数年も残されはしないだろう短い余生を、何処かで静かに、ひっそり過ごし、最期を迎えても、と、幾度も幾度も、考えたけれど。

結局ヒューゴは、その道を選ばなかった。

己を取り巻いていてくれた、親しき者達、愛する者達、皆、己を置いて逝ってしまうのを、変わることない少年の姿のまま、見詰め続けなくてはならない運命は、あの戦いの折、『炎の英雄』と呼ばれた彼にも、どうしようもなく辛過ぎることだったから、本当に本当に沢山の大切な人達が住まう『何処か』に、彼とて、逝きたいとは思ったが。

真の紋章を、それと知りつつ自ら宿したこと、あの戦争を戦ったこと、それらと。

己の右手に、今もこうして『紋章』が在ること、その意味を、改めて見定めてみなければならないような気がして。

大切な人達は、何時でも、何時まででも待っていてくれるだろうから、自身の納得がいくまで待ってて、と『お願い』をして。

彼はこうして、世界を彷徨っている。

闇雲に世界を漂ってみても、『何か』を納得出来る『某か』が得られるとは、ヒューゴ自身思ってはいなかったが、それでも、生まれてより六十余年、殆ど離れることなかったグラスランドの地を離れ、世界を知るだけでも、何かが変わるような気がしたから。

己の知らない世界を渡り歩いて、彷徨って、そうして今、彼は、その国の、波止場にいた。

暫し巡ったその国を離れ、次なる場所へと向う為に。

船に、乗ろうとしていた。

未だ彼は、過ぎる程船に親しみはなくて、高波に揺れるそれに乗っていると、時折、吐き気を覚えることもあるけれど、寝てしまえば何とかはなるから、今度は、もっと南へ行ってみようと。

南国へ向う航路を取る船の乗船受付に、彼は並んでいた。

「……………………え……?」

────と。

そんな彼の直ぐ脇を、彼と同じ旅人が、擦れ違って行った。

その旅人は、人いきれの中でもマントを放せないヒューゴとは違い、その国の気候風土に相応しい軽装をしており、腰帯に刺した剣と、その剣の辺りまである美しい銀髪を惜しみなく揺らして、例えるなら、威風堂々、歩いていた。

……擦れ違った旅人──『彼女』に気付いてヒューゴが振り返った時、もう彼の空色の瞳には、彼女の後ろ姿しか映らなかったから、ヒューゴ自身にも、確かなことは言えなかったが。

それは紛うことなく、良く知っていたひとの姿で。

「……あのっ!」

並んでいた乗船待ちの列を抜け、見掛けた後ろ姿を追い。

「ちょ……一寸待ってっ!」

彼は、誰かが己を呼んでいるらしいと気付き、立ち止まった彼女へ、腕を伸ばした。