彼女自身にも、その自覚はあるが。
何年経っても、どれだけ齢を重ねても、どうしても彼女は、己の質から融通の利かなさを取り去ることが出来ない、良く言えば真面目、悪く言えば堅物、な性格をしているから。
とうの昔に、無責任な身の上になったと言うのに……と、軽く溜息を付きつつ、人々がごった返す、その国の波止場の市の片隅で、掴み上げた、己の為のグラスを見下ろした。
暖かく、過ごし易いことで有名なその国の港町は、その日、少しばかり暑く。
船に乗り込む前に、何かを飲もう、そう思って、彼女は露店の一つに席を取った。
だが、青空の下、食事や飲料を振る舞ってくれるその店は、食事処と言うよりは、飲み屋により近かったらしく、品書きを隅から隅まで眺めてみても、少しばかり暑いその日、彼女の喉を潤すに相応しい、『上品』な飲み物の名前は、何処にも載っていなかった。
それ故、仕方がないか、と。
海の男達や酒場の女達には水にも等しいだろう、酒精を果汁で割った、冷たい飲み物を注文して。
だから、グラスを眺め、彼女は溜息を付いている。
未だ、午後も半ばの、天頂には太陽が燦々と輝いている時間から、酒を飲むなんて、と。
……彼女が酒を飲むこと嗜める者もいないし。
昼日中から、浴びる程酒を喰らったとしても、酔い潰れない限り、彼女以外の誰にも、迷惑なぞ掛からないのに。
長年送った、規則と規律正しい生活が未だに抜けぬのか、彼女はそうしていることに、ほんの少し、罪悪感を覚えていた。
……でもまあ、それも。
無理からぬことなのかも知れない。
────彼女、クリス・ライトフェローは、ゼクセン連邦という国の、ビネ・デル・ゼクセなる街で生まれ育った。
彼の父、ワイアット・ライトフェローがそうであった為か、それとも家名の所為か、元々、そういう世界の水が合っていたのか。
女の身の上で、と言う者もいた中、それでも彼女は、ゼクセン騎士団の騎士になった。
故に、それより、ずっと。
彼女は、男ばかりの、規則と規律正しい世界で、誠『お固く』生きて来たから、二十二歳という若さで騎士団長代行になって、翌年には騎士団長になって……、としながらその身を置いて来た世界の日常が、『日常』を遠く離れて久しい今になっても、抜けぬのだろう。
だがそれでも、港町ビネ・デル・ゼクセで生まれてより、クリスが過ごして来た年月は、もう、九十年近くにはなるから、その外見通り、本当に若かった頃よりは、今の方がマシだ。
どうしようもなく融通の利かない、真面目なだけの質をしていた、二十代の『あの頃』よりは。
彼女の見掛けの年齢は、二十二だったあの頃のまま在るから、己が多少は成長したのだとの自覚を、クリスは余り持てないでいるけれども、それでも。
二十二だったあの年を境に、彼女は変わった。
──あの頃。クリスが未だ、ゼクセン騎士団長代行となったばかりの頃。
彼女の故郷ゼクセンや、グラスランドと呼ばれる地域を巻き込んだ、『英雄戦争』なる戦いが起こった。
紆余曲折の末、その戦いに身を投じることになった彼女自身にも、あの戦いの頃は、今となっては懐かしい話であるけれども、どうしても、あの戦いの最中起こった幾つかの出来事を、約七十年程が過ぎた今でも、彼女は余り振り返りたいと思えぬから、極力、多くを思い出さぬようにはしているが。
想い出は、変わらぬ想い出としてクリスの中に在り、己が父も宿していた、真なる水の紋章を宿すことになって、それからずっと、戦いが終わっても、彼女がそれを宿し続けているのは事実だ。
紋章を宿した者に齎される理に従い、あれ以来、歳を取らぬのも。
…………二十七の真の紋章なる代物は、人には過ぎた力だと、そんなこと、クリスにも判っていた。
己の前から消えてしまって、だからどうしても憎むことを止められなくて、けれど愛していたから探し求めて、死んだと聞かされ悲しみに暮れて、でも生きていて、この男が……、と判った途端、本当に逝ってしまった父・ワイアットが、一度は宿した紋章を、封印してしまった意味も、薄々。
だから、ゼクセンとグラスランドを守る為の戦いを勝ち抜く為にもと、宿した真の紋章を、戦いを終えて後、クリスは、亡き父がそうしたように、もう一度封印してしまおうと思ったけれど。
元々から、『銀の乙女』と呼ばれ、ゼクセン騎士団の英雄との扱いをされていた彼女が、『水』を、己の意思のままに隠すことを、狡猾なゼクセン評議会の者達は、潔しとしなかった。
それ故に、様々なモノに板挟みにされ易い立場に常にいた彼女は、憤慨し、怒りもしたけれど、真の紋章の一つと、真の紋章を宿した英雄の一人を、ゼクセンに繋ぎ止めておく為、脅迫めいたことすら言い、そして行う評議会と、「だと言うならば」の覚悟で、紋章と紋章宿した己を盾に、随分と長い間やり合いを続け、騎士団と、以前よりは遥かに友好的になったグラスランドとの関係を守り抜いて来た。
……けれど、時が経つに連れ、評議会も幾度か代が替わり、あの戦争の頃、己を含め、六騎士と呼ばれていた大切な仲間達も、皆、己の許を去り、又は逝ってしまって。
彼女も、騎士団長の地位を返上した。
座を返し、ゼクセンの騎士ですらなくなったクリスにはもう、真の紋章を宿している必要はなくなってしまったし、愛しく、大切な者達は、時の定めに従って、皆、天上へと逝くのに、己だけは姿形を変えず、それを見送り続けるのも侘しく、悲しく。
かつて、父が、炎の英雄がそうしたように、己も又……とは思ったが。
どれ程の知恵を絞って隠しても、どれ程眠らせても、封印など、何時かは暴かれると言うなら、紋章と故郷の大地の為、その身と命を捧げた少女のように、己が身を以て、紋章を守るのが一番のような気がしたし。
騎士として生き、数えきれぬ数、己が殺めた者達への贖罪も、未だ、成し得ていないように思えたし。
ブラス城という、石ばかりに囲まれた狭い世界の外側を見遣りながら、紋章と、紋章を宿して生き続ける己と、様々なモノの行く先を、もう少しだけでも、己は見届けなくてはならぬ気もして。
故郷と、故郷にあった全てを後にし、幾年も、幾年も、こうしてクリスは、世界を彷徨い。
今は、この国の、この港町にいた。
そして、次なる国へ、向おうとしていた。
彼女の旅は、確かな目的地のある旅ではなかったから、次は何処に行こうか、彼女は迷ったけれども、多分何処へ向ったとしても、結果は余り変わらぬだろうから、少々の罪悪感を齎す、軽い酒を飲み終えた彼女は、露店の席を立ち、一番列の短い乗船受付に並ぼうと、軽い気持ちで決めて歩き始めた。
──笑い声や怒鳴り声の飛び交う市を抜けた彼女の目に、最初に飛び込んで来た乗船受付の列は、ここより南国の港町へと向う列で、それは、長くもなく、短くもなかった。
そんな列を眺め、彼女は一瞬、ここでもいいか、とそう思い掛けたが。
港町ビネ・デル・ゼクセにての想い出よりも、草原に挟まれるように建っていた無骨な城、ブラスでの想い出の方が、遥かに彼女を満たしているので、海はもう当分結構、今は山と草原が懐かしい、と彼女は、北国へ向ってみようかな、と。
ぼんやり、そう考えて、南国行きの船の列に並ぶ人々の脇をすり抜けた。
「……あのっ!」
さて、では北国へ向う船の列は何処かと、直ぐそこの列をやり過ごし、辺りを見回そうとしたら、たった今、すり抜けて来た列の方より、声が上がったのが彼女には判った。
けれど、顔見知りの者一人いないこんな場所で、己に声を掛ける者がいるなどと、彼女は想像だにせず、すたすた、姿勢正しい歩みを止めず。
「ちょ……一寸待ってっ!」
再度放たれた声に、あの声はまさか、私を呼んでいるのか? と、漸く立ち止まってみれば、徐に、腕を掴まれ。
「……何か…………──。────……ヒューゴ……?」
もしかして、自分は何か落とし物でもしたのだろうかと、酷く訝しみながら、腕を掴んで来た相手を振り返った彼女は、その動きを止めて。
呼び止めた彼を、唖然と見詰めた。