── まほろばの罪体 ──

「セツ…………────

何時まで経っても、客室に備え付けられた小さな内風呂から、出て来ようとしないセツナに痺れを切らし。

素肌に上衣だけを羽織って室内を歩き、声を掛けながら、薄い扉を開いてカナタは。

呼び掛けていたセツナの名前を、途中で飲み込んだ。

──扉を引き開いた、その先では。

湯上がりの、セツナの火照った躰が近付いた所為だろう、半ば程を白く曇らせた、脱衣所の大きさの割には大きめな鏡の前に立ったセツナが。

襟の高い服を着たとしても、隠し遂せぬ場所へとカナタ自身が散らした、紅色の『痕』の残る自らの肌を、そっと撫でていたから。

……半端に曇った鏡に映るセツナの顔は、何処か悲しげに歪んでいて、カナタは、見るべきではない物を見てしまった……と、眼前の鏡より視線を逸らし、軽く唇を噛み締めた。

「……あ、カナタさん。御免なさい、お待たせしちゃいました?」

が、セツナは、入り口に立ち尽くすカナタに気付いた途端、浮かべていた儚い表情を消し去って、ほんわり、と笑んだ。

「…………いや、そういう訳じゃないけど……。遅かったから、どうかしたのかな、と」

何処までも、儚いそれ、ではあったけれど、それでも微笑みながら、くるり背を向け、体に羽織っていたタオルを取り去り、わたわたと着替え始めたセツナの後ろ姿に、カナタは曖昧な声を掛けた。

見ないで下さいよー、とか何とか、冗談めいた口調で語りながら、寝間着を身に着けて行くセツナを、苦しげに見遣りつつ。

────こんなに。

こんなに儚い微笑みを、浮かべるような子じゃなかったのに。

百年前に繰り広げられた、あの戦いの日々の最中でさえも。

儚く……なんて笑ったことは、一度足りとてなかった子なのに。

セツナは、どうして……と。

……カナタは、寝間着の白で被われて行く、セツナの背中を眺めながら、その時、天井を仰いだ。

何も彼も、己の所為だ。

…………そう、何も彼も、が。

「……あ、そだ」

──そんなカナタの気配を知らず。

手早く支度を整え終えたセツナは、その最後に、あ……と小さく呟いて、先程まで使っていた大判のタオルを取り上げ、ふわ……っと、曇ってしまった鏡を被った。

「…………セツナ? 何してるの?」

身の内を駆け巡る、罪の意識を押し殺して。

何をしているのか、とカナタは、常のトーンでセツナに尋ねた。

「これですか? ……えっと、その………。──何でか、最近カナタさん、いよーーー……に、鏡見るの嫌がるでしょう? 知ってるんですよー、僕。理由は知りませんけど。だから、被っとこうかなって思って」

すればセツナは、ほわほわと笑んだままカナタを振り返り。

カナタさん、鏡見たくないみたいだから、と。

僕が『こうする』のは当たり前なんです、と。

あっけらかん、と告げた。

「…………そっか……」

「はい、そうですよー。あ、カナタさんも、お風呂入りますよね? 僕、タオル取って来ますねー」

そうして、彼はそのままぺたぺたと、素足の足音を響かせて、立ち尽くすカナタの脇を、通り抜けようとした。

──────セツナ」

しかし、カナタは。

出て行こうとしたセツナの二の腕を掴み。

「え、カナタさん?」

強く抱き締め、その胸へ収め。

「セツナ…………?」

「はい?」

「君は、僕の…………。────君は、僕の……タカラモノ、だよ……。僕だけ、の……」

……………彼だけの、灯火であり。

彼だけの、タカラモノである、セツナの、柔らかい薄茶色の髪に、頬を埋めるようにして。

ぽつり、カナタは呟いた。

──灯火であること。

タカラモノであること。

それだけは、違えようのない、事実なのだ……と。

────まほろば、と例えても、決して過ちではない程の『高み』に立ち続けながら。

確かな、罪体を抱え。

強く強く、セツナを抱き締め。

カナタはその時、眩暈を覚えた。

End

後書きに代えて

──『まほろば』  優れた、良い場所。

──『罪体』    例えるなら死体のような、犯罪の基礎となる事実。

…………………………御免なさい。

蓋を開けてみれば、そんなこんなだった彼等ですが、このシリーズの最後までお付き合い頂けたら幸い。

──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。