何時しか主題は、『健康』と相成った、百年前に不老となったカナタとセツナの外見には誠相応しくない、が、実年齢には誠相応しい会話を、暫しの間交わし。
結局何時も通り、最後には、セツナの両頬を、カナタが思い切り摘んで引く、という形でそれが終わった後。
「……一寸、口が滑っただけじゃないですか……。百年間一回も病気しない、怪我もしない、なんて、一寸人外って言わないかなー……って、ほんの出来心で思っただけじゃないですか…………」
むにっっっ……と、音がしそうな程引っぱられた頬を、すりすりと撫でて労りつつ、ぼやきを零しながらセツナは、御神木の辺りを一回りして来る、と言い残し、カナタの視界から消えた。
「……出来心で思ったんなら、言わなきゃ良いのに。口滑らせるから……」
びーびーと、泣き言と言い訳と文句を垂れながら、消えて行ったセツナに、カナタはくすりと笑みを与え、己以外の誰もいなくなったそこで、頭に巻いた若草色のバンダナを、ばさりと音を立てて取り去り、セツナもそうしたように、両の手袋も外し。
両手で掬った、『神よりの賜物』である雫で、目元を漱ぎ始めた。
その冷たさも心地よい清水は、彼の持つ一対の漆黒を綺麗に漱いでくれはしたので、ふるりと頭を振って、面に付いた雫を飛ばした彼は、一瞬、安堵に近い表情を拵えたけれど。
次の瞬間彼は、水盤のように掘られた岩の窪みに溜った清水の、その水面を見遣って面差しを変え。
ばしゃりと音さえ立てながら、透明な水面を波立たせた。
「…………幻影だと、思いたいんだけどね…………」
そうして、彼は。
薄日が洩れる木立の向こうの空を見上げて、重苦しい声を零した。
────もうそろそろ、数年前のこと、と言えるようになる。
彼とセツナが出逢ってより、丁度百年目の日を、黄金の都にて過ごしたあの夜を境に。
あの夜から今日
徐々に。
彼の持つ、漆黒の瞳には、存在する筈のない影、この世のモノならざらる影、が映り込むようになった。
…………それは、幻覚、幻影の類いなのだと。
彼としては思い込みたかった。
先日部屋を取った宿屋で、浴室の鏡の前へとセツナを引き摺って行き、何か見えるか、と問うたら、別に? との答えも返って来たから、きっと、この世のモノならざる影は、本当に、有り得ないモノなのだろう。
さもなくば、体の何処かに変調でも来したか……と。
そう、彼は結論づけたかった。
でも、日ごと、夜ごと、存在する筈のない影は、鮮明さを増して。
存在感も増して。
つい、『迷信に縋る』という気迷いを起こして、こうして瞳を漱いでみた清水の水面にさえ、映り込んで。
頭の片隅で、ゆっくりと再生される音は、遠い昔、見えざるモノを見たいとねだったセツナに、あの吸血鬼の始祖が告げたという言葉。
魂喰らいを宿した者は、…………との、ソレ。
……視えないモノは、何処までも、視えてはならぬ筈のモノで。
この世のモノならざるモノすら映す程、この瞳は未だ、『彼方』を見詰めてはいない。
そして。
こんなに、『幸せ』、なのだから。
こんなに、『何も彼もが望んだ通り』、なのだから。
こんなに、『高く遠い場所』、にやって来たのだから。
『こんなモノ』、視えてはいけないのに。
確かにソレは、ソコにあり。
「どうしてなのかな…………」
服の裾で乱暴に、己が目元を拭いながらカナタは、つらつらと考え、独り言を呟いた。
視えざるモノが視える今が、この彼をしても少しばかり、辛かった。
しかし、現実は、現実だから。
カナタは強く、頭
「カナタさん、カナタさん。廻ってみると、良く判りますよー。この木、物凄く太いです。どれくらい、この場所で生きてるんでしょうね、この御神木」
──と、彼が巨木を見上げた丁度その時、木の根元を一周して来たセツナが戻って来て、感嘆しきりの顔と声で、カナタに語った。
「さて、ねえ……。どれくらいの樹齢なんだろうね。千年、と言われても驚かない立派さだけど」
故に、セツナが消えていた間、湛えてしまった憂いを、カナタは綺麗に掻き消して、神木を見上げたまま答え。
「千年、ですかぁ……。千年生きてる樹なら、確かに神様みたいなものですよねえ……」
カナタの隣に立ち、セツナは同じように、神木の頂上を見遣った。
「……神、か。……そうだね、神、というモノが、もしもこの世に在るのなら。それは多分、こういう存在のことを指すんだろう。正しい形で、千年、確かに生き続けられるような。命の正しい在り方を、決して違
「………………カナタさん? ……どうかしました……?」
傍らの人が見詰めているだろう先を、共に見詰めていたら。
思いも掛けぬ言葉が紡がれたので。
神木の頂上を探すこと止めて、セツナはカナタへと、視線を戻した。
「ん? 別に何もないけど? ……何でそんなこと思うの?」
が、カナタは、きょとんとした顔を作って、セツナを見下ろし。
「……その……何て言うか……。こう……上手く説明出来ないんですけど、カナタさんらしくないって言うか……」
「え、そう? 千年の刻を掛けて、神になったモノの前にいるから、少しくらい敬虔なこと言おうかと思っただけなんだけど」
茶化すような微笑みを浮かべ、ふざけているような声で、カナタは言葉を放ち。
「…………何時か、罰が当たりますよ、カナタさん……」
心配するんじゃなかった、と、セツナは項垂れた。
「罰なんて当たらないって。本当の神とは、そんな存在ではないよ。全てを赦す慈愛が、神の本質である、それが事実であるなら、教典に描かれている神など全て、祟り神だ。利己的な神が与える罰など、恐るるに足らない。祟り神でしかない神が、教典の中で語る戒律に、益はない。この、千年の神のような姿が、本当の神ならね」
すればカナタは、げんなりとしてみせたセツナを視界の端に捕らえ、愉快そうに声を立てて笑い。
足許に転がしたままだった、手袋を取り上げ、両の手を覆い直した。
「さて、行こうか。早くしないと、街に着く前に日が暮れる」
「あ、そですね。じゃ、行きましょうか」
すっかり支度を整えて、行こう、と言うカナタに、セツナも頷き。
二人は又、木々の根を越えて、鬱蒼とした森の中を抜ける、細い道へと戻った。
「それにしても、カナタさんの宗教観が、そんなに歪んでるなんて、僕知りませんでした」
「…………失礼な。……でもまあ……歪んでも仕方ないんじゃないの? 創世の物語を信じる限り、この世界の『神』は、二十七の真の紋章らしいから」
「……あー、確かに。…………うん。歪みますね…………」
「だろう?」
「ええ……。落ち込みそうな程……」
──そうして、二人は。
千年の刻を掛けて、『神らしきモノ』になった巨木に背を向け、森の向こうに消えた。
千年の刻を掛けても、人は神にはなれない。
神になれぬ人に、在らざるモノが視えてはいけない。
人は、千年の神にはなれない。
けれど、瞳の向こうには。
『ヒト』でありたい。
だから、視えてはいけない。
『ヒト』として、留まってはいけない。
だから、視えなくてはいけない。
………………だとするなら。
僕の目指す果てには、何が在るのだろう。
何が、在ればいいのだろう。
End
後書きに代えて
カナタに、視えるようになったモノの話。
……えらいこと長く、消化に時間掛かる伏線引いて申し訳ない。
──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。