カナタとセツナ ルカとシュウの物語

『Last』

−貴方に寄せる最期の後悔−

どれ程払っても、何時の間にか、何処いずこより忍び込んで来て、机の上に広げた、溢れんばかりの書類に、只触れるだけでザラリと音がする程乗ってしまう細かい砂を、今日も又、払い落としながら。

トラン解放軍正軍師、マッシュ・シルバーバーグは、軽い溜息を付いた。

今、彼の瞳の中を覆い尽くしているのは、トラン解放戦争に参加してより、日毎夜毎眺めて来た、何時もの書類達と大差ない、けれど、今までのそれとは決定的な隔たりを持つ、厄介な代物で。

「アップル。サンチェスを呼んで来て貰えますか」

けれど、薄く微笑んでいるような、常の表情を崩さぬまま、マッシュは、トラン湖の孤島に建つ、解放軍本拠地の己が自室にて、何やかやと己の手伝いをして歩いている弟子へと告げた。

「サンチェスさんをですか? はい」

どうしたって、『上司』又は『上官』ではなく、師匠、としか見遣れぬマッシュの命に、アップルは、マッシュが営んでいたセイカの村の私塾にて、師よりの教えを請うていた時と何ら変わらぬ態度を見せ、タッ、と駆けるようにその部屋を飛び出して行き。

「お呼びですか? マッシュ様」

それより、大した時も過ぎぬ内に、部屋主以外は誰もいなくなったそこへ、今は亡きマッシュの妹、オデッサ・シルバーバーグが解放軍軍主を務めていた頃より、解放軍に参加している文官のトップ、サンチェスが姿を見せた。

「ええ。一寸、話が」

──未だ、夕餉の頃合いが終わったばかりとは言え、もう今日の陽は落ち、一日の仕事は終わり、成すべき仕事も、成すべき話し合いも、疾っくに済んでいる筈なのに、何故呼び出されなくてはならないのか判らない、と言うような顔付きで現れたサンチェスへ、身振りで腰掛けるよう促して、何でもない話をし始める風な様子を、マッシュは取った。

「話ですか? ええと……軍費関連の書類は提出致しましたし、モラビア城での一件の報告書……も纏めましたし……。……何か不備でも……?」

「ああ、いえ、そうではなくて」

それが、この軍師の良く取る態度であると判ってはいても、前触れもなく呼び出した割には、余りにも、マッシュの様子が普段通りだったので、サンチェスは一人、呼び出された理由に当たりを付け始めたが、そういう話ではなくて、とマッシュは、彼を遮り。

「…………『話』があります」

改めて、そう切り出した。

「……はあ。で、お話とは何ですか?」

「先日、モラビア城へ攻め上がる為に、北の砦を攻略する際、私が取った策を、覚えていますか?」

「はい、勿論」

「では何故、私がそんな策を取ったと思いますか?」

「皆さんが為さっている噂では、帝国のスパイがいるらしいから、とのことだそうですが……。私には、マッシュ様が本当の処、何を考えてあの策を取られたのかまでは」

「そうですか。……でも、皆がしている噂通りですよ。私があの策を取った理由は」

「………………そうなのですか……? では、本当にこの軍の中に、帝国のスパイがいる、と……?」

「ええ、そういうことになりますね」

念を押すように、話がある、とサンチェスへ向かって言い出したマッシュは、解放軍内部に潜んでいる、赤月帝国のスパイの話を、サンチェスへと打ち明け始めて。

机に広げた書類の内の何枚かを、落書きした紙でも放るかの如く、相手の前へと押し出した。

「多くを語れとは言いませんよ。そんなこと、言ってみても始まりません。が、何故私が貴方を呼び出し、こんな話を始めたのかの理由を汲んで、『認める』くらいのことは、して貰えませんか」

……彼が、サンチェスの前へと滑らせた書類は、赤月帝国のスパイに関することが綴られているらしく。

書類達を取り上げようともせず、只黙って視線だけを紙面に落としたサンチェスへ、マッシュは、そう畳み掛けた。

「……マッシュ様が言わんとすることを、私が認めたとして。そうなったとしたら、どう致しますか?」

自分が伝えようとしていること、差し出した紙面に踊ること、それを全て認めろと、突き付けて来たマッシュに、ゆっくりと、紙面より眼差しを持ち上げ、サンチェスは言った。

「…………どうもしません。モラビア城を無血開城出来た今、我々が目指すべき場所は、グレッグミンスターのみ。その為に、あの帝都を守る砦──クワバか、シャサラザードか、そのどちらかを陥とせば最後の戦いがやって来る今この段になって、選りに選って、この軍の上層部の一人である貴方が帝国のスパイだと暴くのは、得策ではないと思うので。……ですから。貴方の正体を暴いて、処罰することが出来ない以上、私は貴方を、どうするつもりもありません。……ああ勿論、諜報活動は止めて貰いたいですが」

すれば、マッシュは。

自分は今、帝国のスパイが誰なのかを突き止めた、『その後』のことを話しているのではなく、事実のみを話しているだけだ、と、若干、肩を竦めた。

「……では何故、このことを、マッシュ様は私自身に話されたのですか」

只、事実を確認するのみで。

捕らえるつもりも罰するつもりもない、と言うマッシュに、サンチェスは、酷く驚いたような顔を作ったが。

「貴方に、お願いがあるからです」

取るに足りない話をした、その序でのような風情で、マッシュは相手の瞳を覗き込んだ。

「お願い?」

「…………ええ。お願い、です。────貴方はこれまで、この軍の情報を、帝国に流して来た。絶やすことなく。恐らくは、レナンカンプの件も。そして、この戦争の先が見え、北の砦を陥とす段になっても、貴方はそれを止めなかった」

「……そうですね」

「オデッサが存命だった頃──即ち、解放軍が未だ立ち上がったばかりの頃から、貴方は『ここ』にいて。そしてこれまで、誰にも疑われませんでしたから。やろうと思えば、それこそ何でもやれた筈の貴方が、『決定打』を打つことなく今日まで来たのは、貴方の『情』の部分が、揺らいだからなのでしょうが。多かれ少なかれ、貴方は自分の責務を果たし続けているのだ、今更何を言ってみた処で、それこそ、どうにもなりませんよ。そもそも、人間の信念などという物は、早々に変わったりはしません。……ですから、お願いがあるのです。…………ああ。『お願い』という言い方が理解出来ないのならば。──『取り引き』。……これで、どうです?」

そうして、マッシュはサンチェスの瞳を捉えたまま。

私と、取り引きをしませんか、と。

サンチェスに持ち掛けた。