「取り引き、ですか? 帝国のスパイである、この私と?」
先程から驚きの表情を消せずにいた面の色を、一層サンチェスは深めて、マッシュの言い出したことに、目を丸くした。
「はい。取り引きです。────貴方には、貴方の責務がある。何を言っても、どう説得してみても、貴方はそれを曲げぬでしょう。貴方の忠誠は、我々の軍主、カナタ殿ではなく、バルバロッサ皇帝の許にある。ですが、貴方のそれのように、私の忠誠は、カナタ殿の許にある。貴方には貴方の責務があるように、私には私の責務がある。けれど私には、馬鹿正直にそれに従い、貴方を罰することは叶いません」
そんなサンチェスより、マッシュは僅か身を引くように、腰掛けている椅子の背へ、背中を預けた。
「……そうですね。貴方の仰ることは、至極正しいのでしょうね…………」
「私の言うことが、正しいのか間違っているのか、そんなこと、今は問題ではありません。──唯一つ、確かに言えるのは。私には、貴方を監視することは出来ても、貴方のしようとすることを、止めることは出来ない、ということです。……ですから。この戦争の先が見え切っても尚、皇帝に忠誠を誓い、貴方の責務を果たし切るつもりだと言うなら。────…………サンチェス」
「………………はい」
「……サンチェス。貴方の責務が生み出す刃を向ける先は、カナタ殿ではなく、私にして貰えませんか」
──少しばかり、身を引いてみせたマッシュと。
マッシュを凝視続ける、サンチェスとが。
暫しの間、睨み合うようにした後、間を置かず、マッシュが言い出したことは、そのような『取り引き』だった。
「マッシュ様、貴方は…………。……貴方は、カナタ様の最後の盾になると、そう言われるのですか……?」
「……ええ。それが、私の責務であるなら。…………サンチェス。……貴方の、本当に果たすべき責務は、『そこ』ではないのですか? 例えこのまま、帝国が滅び逝くとしても、貴方が目指さなくてはならないのは、『そこ』でしょう? だから、この推測に間違いがないなら、刃を向ける先は、カナタ殿ではなく、私にして下さい」
「でも……。カナタ様がそうであるように、マッシュ様も、この軍に……──」
「──確かに、そうなんでしょうね。……でも、グレッグミンスターへ攻め上がる為の路さえ作ってしまえば、私など。カナタ殿だけがおられれば、それで充分ですよ。貴方も、判っている筈です。……ですから。カナタ殿ではなく、私を。私では、役者不足かも知れませんが、そうすれば少なくとも、貴方の中の、皇帝陛下への忠誠に、背くことにはなりませんでしょう? そして出来れば、貴方が貴方自身の忠誠と責務を全うするのは、グレッグミンスターへの路が開かれた後にして下さい。…………どうでしょう。悪い取り引きではないと思いますが」
「……………………マッシュ様」
『取り引き』の全てを、マッシュが伝え終えた後。
サンチェスは、マッシュより視線を逸らしつつ、何やら躊躇いがちに、その名を呼び。
「……はい」
「私には……、お答え出来かねます。大変申し訳ありませんが、それ以外、お伝えすることは出来ません」
深々と、頭を下げて彼は、軍師の自室を出て行った。
トラン解放戦争を戦い抜いている、解放軍本拠地の一室で。
マッシュとサンチェスの二人が、一つの『取り引き』を挟みながら睨み合ってより、数週間後。
解放軍は、水上砦・シャサラザードへと攻め入った。
──そこに攻め入るに足りるだけの船が、それまで、解放軍には備わっていなかったから。
帝国軍の者達は固より、解放軍の誰も──軍主、カナタ・マクドールでさえも、そこを攻めるとは考えてもいなかった水上砦を陥落させる為、たった一夜で、五〇〇隻もの船をマッシュは、氷を使って生み出してみせており。
まさか、充分な船を持たぬ敵に、攻め入られるとは思っていなかったのだろう帝国水軍対解放軍の戦いは、呆気ない程簡単に、解放軍側が勝利を収めた。
だから、水上砦を巡る攻防戦に勝利した解放軍は今、次なる策を行っており。
軍主・カナタが率いる小部隊は、帝都・グレッグミンスターへ攻め上がるに邪魔な砦を焼き払う為に、地下水路の水門へと向かい、副将であるフリック率いるその他の部隊は、湖上での掃討戦へ出払っていた。
それ故、シャサラザードの地下水路へ続く塔付近の船着き場は、そう例えるには余りにも規模が小さ過ぎるが、『解放軍・本陣』のようになっており。
そこにて、向かうべき場所へと散って行った皆を見送ったマッシュとサンチェスの近くには、若干名の一般兵士と、医師・リュウカンしかおらず。
戦いの騒がしさが遠くから響いて来るだけの、閑散とした場所と化していた。
…………だから。
マッシュやサンチェスと残った、若干名の兵士達もが、警護や警戒の任に赴いてしまった直後。
「マッシュ様」
サンチェスは、己よりも十以上年下の、軍師の名を呼びつつ、対面に立ち。
徐に、その肩に手を置いて。
手にした小さなナイフに身の重さを預け、そのまま、マッシュへと倒れ込んだ。
「……サンチェ…………? ──マッシュ殿? マッシュ殿っ!」
──何も言わず、表情も変えず。
サンチェスが凶行に及んだ途端、マッシュの体は石くればかりの船着き場の地面へと崩れ落ちて、その光景を視界の端で拾ったリュウカンの、悲鳴に似た声が、辺りに響いた。
「申し訳ありません。……私にはやはり、これまでを捨てることは出来ませんでした……。……でも…………──」
小さく細い刃先が抉って行った場所を、押さえながら倒れ込み、踞ったマッシュを立ち竦んだまま見下ろし、サンチェスは呟く。
「………………有り難う……」
けれど、サンチェスのその呟きを拾ったのだろうマッシュが、彼へと返した言葉は。
感謝の言葉、だった。
────遠く、遠く。
本当に、遠く、微かに。
今となってはもう、歴史の片隅に消え入ってしまいそうな、『継承戦争』の頃、己も住まっていた街、グレッグミンスターより、歓喜の声らしき騒ぎが、帝都を守る堅牢な壁の外側に張った、解放軍本陣の天幕の中まで届いて来たのを聞いて。
「……リュウカン殿……? 我々は、勝った……のでしょうか……?」
シャサラザードにてサンチェスより負わされた傷を悪化させてしまったが為、ベッドに横たわることしか出来ないマッシュは、傍らに付き添ってくれている、医師・リュウカンの顔を見上げた。
「ええ、ええ。マッシュ殿、勝ちましたぞ。我々が、勝ちましたぞ」
視点の定まらない、彷徨うような目付きで見上げて来た彼へ覆い被さる風にしながら、リュウカンは励ますように、解放軍勝利を伝える。
帝都グレッグミンスターは陥落し、グレッグミンスター城は落城し。
解放軍は、この解放戦争に勝利し、そして、戦争は終わったのだ、と。
「そう、ですか…………」
リュウカンが、自軍の勝利を語れば、マッシュは安堵したような表情を浮かべ、僅か笑み。
けれど直ぐさま、苦し気な色を頬に過らせ。
今度は、彷徨うような視線ではなく、真っ直ぐ。
揺らがぬ瞳で、リュウカンを見た。
「…………私はこれで、良かったのでしょうか……。私のしたことは、間違ってはいなかったでしょうか……」
「……マッシュ殿?」
「私は戦いを疎み続けて来た……。戦場になど、もう二度と戻るつもりはなかった……。なのに、私は戦場へ戻って……多くの人の命を、奪うような真似をしました……。…………私は本当に、これで良かったのでしょうか……。──あの、セイカの街で一人、釣りでもしながら一生を送った方が、もしかしたら………………──」
そうして、彼は、辿々しく、そうリュウカンに告げて。
「マッシュ殿……。それは……。その、答えは…………」
老医師が、告げ返すべき言葉に詰まる中。
彼はゆっくりと、目を閉じた。
「……マッシュ殿? マッシュ殿………? ──お眠りになりましたか? マッシュ殿……。安らかに、お眠りなさい。貴方は、とても多くのことを、成し遂げたのだから……」
──老医師が囁く、小さな見送りの声を聞きながら。
医師のみに看取られて。
目を閉じて。
その、生涯を、マッシュは。