町並みの合間にちらちらと揺れる、幾つもの篝火を、時折振り返り。
その一角だけは人気の途絶えた通りを辿って、カナタはその夜、一人で、己が生家の前に立った。
石畳の通りに佇み、己が生まれ育った屋敷を見上げれば、今は住む者もおらぬ我が家には、当たり前のように灯り一つも灯されてはおらず、ひっそりとした、隠れ家のような生家の佇まいに、彼は軽い苦笑を浮かべた。
………………親友との遊びが過ぎて、帰宅が遅くなり。
家人……父や、従者達に、叱られるかも、と、赤々と灯りの灯った我が家を見上げることもあった、『あの頃』が、もう、遠い昔のことに思えた。
百年、二百年前の。
古い古い、お伽噺の中で語られるような、遠い、夢物語の中の出来事に思えた。
冷たい雨が降りしきる、あの雨の夜。
この家を後にしたのは、たった二年前のことだ。
否、正確に指折り数えれば、一年と数ヶ月程、かも知れない。
……なのに。
生まれ育った、愛しい我が家は、お伽噺によく登場する、茨の蔓に取り囲まれた、全てを拒む古城と映った。
カナタでさえも拒んでみせる、古の、城のような……──。
「…………さよなら」
────見上げても、灯り一つ映らず。
懐かしい思い出の、香り一つ窺わせてはくれぬ己が生家を、唯、見上げ。
彼はその時、別れを告げた。
愛しい生家が、今は彼に背を向けるように。
彼も又、生家に、故郷の街に、祖国に、背を向けようとしていたから。
だから彼は、愛しい場所へと。
もう二度と、帰ることはないかも知れぬ我が家へと。
簡潔な、別れの言葉を低く告げた。
黄金の都を、半分の喜びと、半分の哀しみが覆ったから。
細やかな振る舞い酒に酔いしれた人々が、賑やかなひと時を過ごして。
だがそれも費えた、真夜中。
耳に痛い程の、シン……とした空気を伴う静寂が、訪れた頃だった。
日没の頃、東の空にあった満月は、南の天頂へと輝きを移していて、カナタは、その月明かりを頼りに、喧噪に身を浸したまま寝入ってしまった仲間達に気付かれぬように、『輪』の中を抜けた。
己が生家の前へと佇む為に、彼が姿を消したのは、ほんの僅かの間のことで、それ以前も、それ以降も、彼は請われるままに、歓喜の輪、追悼の輪、その中へと身を寄せ、何時も通り、軍主然とした顔、軍主然とした微笑み、それらを拵えていたから。
彼が、誰にも何も言わず、黄金の都を後にするなどと、仲間達の誰一人として、想像し得ぬだろう。
幼き頃より、カナタと共に過ごしていた、姉にも等しい存在、クレオ唯一人を除けば。
故に彼は。
ああ、やっぱり……、と思うだろうクレオと、どうして、と思うだろう沢山の仲間達に、申し訳ないけど、と、若干だけ詫びつつも。
迷うこと無い足取りで、月明かりの中、綺麗と言える程に気配を消し、石畳の目抜き通りを辿って、市門の前に立った。
都を囲む壁も、『要らぬ者』を拒む門も、高く、固く、聳えてはいたが、浮かれる者も多かったその日、門の施錠は下りておらず、手を添え軽く押せば、キ……と、微かな軋みを一度立てたのみで、鉄で編まれた門は開いた。
…………門を潜り抜け。
開いたそこを、元通り、丁寧に閉じ。
黒塗りの棍と、本当に細やかな量の、旅に必要な荷物を持って、深緑色の、使い古されたマントを羽織った姿で、カナタは、南の天頂を見上げた。
────せめて、其方の道行きを、と。
そう言わんばかりに、月は、煌煌と輝き、彼がこれから踏み締めて行くだろう路を、静かに照らしている。
南の空に、今はある月が、明けの頃、西の空へと移る時には果たして、何処まで辿り着けているだろうか、と。
カナタは、そんなことを思いながら、月を見上げることを止めた。
……月が。
せめて、今宵の道行きくらいは、と、行く先を照らしてくれると言うのなら。
今だけは、それに甘んじよう。
例えこの先。
幾千、幾万、幾億の夜。
今宵のように、道行きを、月明かりが照らしたとしても、それは決して、真実の灯火にはなり得ぬから。
……そう。今宵の、ように。
幾千、幾万、幾億の夜、天頂の月が、輝こうとも。
僕の目指す路の果てに、その光は届かない。
…………もう、決めたのだ。
僕は立ち止まらない。
僕は歩みを止めない。
唯、ひたすらにこの路を、一人ゆくのだと。
この路の、終わる果てまで。
────この路の終わる果て。
月の光は届かない。
でも、僕は、決めたのだ。
この路を、果てまでゆこうと。
この路が、終わるまで。
月を見上げることを止め。
カナタは、街道を歩き始めた。
供もなく。
唯、一人。
『この路』の、終わる果てまで、と。
そう、心に決めて。
けれど、彼は。
歩き始めて暫し後、又、天を仰いで。
輝く月を、見上げて。
一度、だけ。
「でも、もしも…………────」
……と呟き。
『鮮やか』に、笑った。
そうして、彼は。
『路の果て』を目指す旅路の始まり、今は亡き父を、その手で討ち滅ぼしたあの場所へと赴くべく、その歩みを早めた。
End
後書きに代えて
グレッグミンスター陥落の日の夜。
カナタが、黄金の都を旅立った日のお話でした。
『The end of the road』とは、『道の終わり』、そういう意味です。
彼の目指す路の終わりは、遥か遠い彼方です。カナタとセツナの話が全て終わりを見る頃には、その場所も明らかになるかと。
──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。